誇っている。なんたる自然の偉大さであろう。出来得べくんば自分もこの水蓮の花のように、如何《いか》なる事件に逢おうとも心を動かすことなくありたい。これが加藤君の水蓮によって悟入した心境であった」
師匠というものは弟子の心をよく知っているものだが、高次郎氏もまた、水蓮のような人として師の眼に映じていたにちがいない。この遺歌集の最後の二首は、また氏の最後のものらしく円熟した透明な名残《なご》りをとどめている。
「しののめはあけそめにけり小夜烏《さよがらす》天空高く西に飛びゆく」
「大いなるものに打たれて目ざめたる身に梧桐《あをぎり》の枯葉わびしき」
高次郎氏の師匠はさらにこの歌集の巻末に、加藤君はある夜役所の帰りに突然私の所へ来て、雑誌に出た自身の歌を全部清書したいからと云い、端座したまま夜更《よふけ》までかかって清書をし終えた。その後で酒を二人で飲んで帰途についたが、翌日加藤君の危篤の報に接し、次の日に亡くなった。人生朝露のごとしといえあまりのことに自分は自失しそうだと書いてあった。
してみると、高次郎氏が電車に飛ばされたのは、自分の歌集を清書し終えたその夜の帰途にちがいないと私は
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