名手だから高次郎氏の死後の生活の心配は先ず無くとも、見ていても出来事は少しこの家には早すぎて無慙《むざん》だった。加藤家はその後すぐ人手にわたった。そして一家は高次郎氏やみと子夫人の郷里の城ヶ島へ水の引き上げてゆくような音無《おとな》しさで移っていった。
 三カ月は不慮の死の匂いがあたりに潜んでいる寂しさで私は二階に立った。ある日みと子夫人から、香奠返《こうでんがえし》に一冊の貧しい歌集が届いた。納められた中の和歌は数こそ尠《すくな》かったがどれもみな高次郎氏の遺作ばかりだった。私は氏を剣客だとばかり思っていたのにそれが歌人だったと知ると、俄《にわか》に身近かなものの死に面したような緊張を感じ、粗末な集を先ず開いたところから読んでみた。
「宵月は今しづみゆき山の端《は》におのづ冴《さ》えたる夕なごり見ゆ」
「夕暗《ゆふやみ》に白さ目につく山百合《やまゆり》の匂ひ深きは朝咲きならむ」
 月夜に明笛を吹いた剣客であるから相当に高次郎氏は優雅な人だと私は思っていたが、しかし、これらの二首の歌を見ると、私は今まで不吉な色で淀《よど》んで見えた加藤家の一角が、突然|爽《さわ》やかな光を上げて清風
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