に満ちて来るのを覚え襟《えり》を正す気持ちだった。
「冷え立ちし夜床にさめて手さぐりに吾子の寝具かけなほしけり」
「井の端にもの洗ひ居《を》る我が妻は啖《たん》吐く音に駆けてきたれる」
 この歌など高次郎氏の啖吐く音にも傍まで駆けよって来るみと子夫人の日常の様子が眼に泛《うか》んで来るほどだが、これらの歌とは限らず、どの歌も人格の円満さが格調を強め高めているばかりではない、生活に対して謙虚清澄な趣きや、本分を尽して自他ともどもの幸福を祈ってやまぬ偽りのない心境など、外から隣人として見ていた高次郎氏の温厚質実な態度以上に、はるかに和歌には精神の高邁《こうまい》なところが鳴りひびいていた。
 暫くの間、私はこのあたりに無言でせっせっと鍬《くわ》を入れて来た自分の相棒の内生活を窺《のぞ》く興味に溢《あふ》れ、なお高次郎氏の歌集を読んでいった。妻を詠《うた》い子を詠う歌は勿論《もちろん》、四季おりおりの気遣《きづか》いや職務とか人事、または囚人の身の上を偲《しの》ぶ愛情の美しさなど、百三十二ほどのそれらの歌は、読みすすんでゆくに随《したが》い私には一句もおろそかに読み捨てることが出来ないものば
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