と、あれ加藤の小父さんだよと子供の云うのを聞き、私も一緒に明治時代の歌を一吹き吹きたくなったものである。
高次郎氏が看守長となった年の秋、漢口《かんこう》が陥《お》ちた。その日夕暮食事をしていると長男が突然外から帰って来て、
「加藤さんところの小父さん、担架に乗せられて帰って来たよ。顔にハンカチがかけてあった」と話した。
私と家内は咄嗟《とっさ》に高次郎氏の不慮の死を直覚した。
「どうなすったのかしら。お前|訊《き》かなかった」
家内の質問に子供は何の興味もなさそうな顔で「知らん」と答えた。外から見てどこと云って面白味のない高次郎氏だったが、篤実な人のことだから陥落の喜びのあまりどこかで酒宴を催し、ふらふらと良い気持ちの帰途自動車に跳《は》ねられたのではなかろうかと私は想像した。それならこれはたしかに一種の名誉の戦死だと思い、すぐ私は二階へ上って加藤家の方を見降した。しかし、家中は葉を落した高い梧桐《あおぎり》の下でひっそりと物音を沈めているばかりだった。そのひと晩は夜の闇が附近いちめんに密集して垂れ下って来ているような静けさで、私は火鉢につぐ炭もひとり通夜の支度をする寂しさを感
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