が》すべきベランダにあった。ベランダは花園の方を向いていた。彼はこのベランダで夜中眼が醒《さ》める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々《こうこう》として彼の視線を放さなかった。その海の断面のような月夜の下で、花園の花々は絶えず群生した蛾《が》のようにほの白い円陣を造っていた。そうして月は、その花々の先端の縮れた羊のような皺《しわ》を眺めながら、蒼然《そうぜん》として海の方へ渡っていった。
そういう夜には、彼はベランダからぬけ出し夜の園丁《えんてい》のように花の中を歩き廻った。湿った芝生に抱かれた池の中で、一本の噴水が月光を散らしながら周囲の石と花とに戯《たわむ》れていた。それは穏かに庭で育った高価な家畜のような淑《しと》やかさをもっていた。また遠く入江を包んだ二本の岬《みさき》は花園を抱いた黒い腕のように曲っていた。そうして、水平線は遙か一髪の光った毛のように月に向って膨《ふく》らみながら花壇の上で浮いていた。
こういうとき、彼は絶えず火を消して眠っている病舎の方を振り返るのが癖《くせ》である。すると彼の頭の中には、無数の肺臓が、花の中で腐りかかった
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