械となっているにすぎなかった。実際、この二人は、その互に受けた長い時間の苦痛のために、もう夫婦でもなければ人間でもなかった。二人の眼と眼を経だてている空間の距離には、ただ透明な空気だけが柔順に伸縮しているだけである。その二人の間の空気は死が現われて妻の眼を奪うまで、恐らく陽が輝けば明るくなり、陽が没すれば暗くなるに相違ない。二人にとって、時間は最早愛情では伸縮せず、ただ二人の眼と眼の空間に明暗を与える太陽の光線の変化となって、露骨に現われているだけにすぎなかった。それは静かな真空のような虚無であった。彼には横たわっている妻の顔が、その傍の薬台や盆のように、一個の美事な静物に見え始めた。
彼は二人の間の空間をかつての生き生きとした愛情のように美しくするために、花壇の中からマーガレットや雛罌粟《ひなげし》をとって来た。その白いマーガレットは虚無の中で、ほのかに妻の動かぬ表情に笑を与えた。またあの柔かな雛罌粟が壺にささって微風に赤々と揺《ゆ》らめくと、妻はかすかな歎声を洩《もら》して眺めていた。この四角な部屋に並べられた壺や寝台や壁や横顔《プロフィール》や花々の静まった静物の線の中から、か
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