《くら》のように、虚無の中へ坐り込んだ。そうして、今は、二人は二人を引き裂く死の断面を見ようとしてただ互に暗い顔を覗《のぞ》き合《あわ》せているだけである。丁度、二人の眼と眼の間に死が現われでもするかのように。彼は食事の時刻が来ると、黙って匙《さじ》にスープを掬《すく》い、黙って妻の口の中へ流し込んだ。丁度、妻の腹の中に潜んでいる死に食物を与えるように。
あるとき、彼は低い声でそっと妻に訊《たず》ねてみた。
「お前は、死ぬのが、ちょっとも怖《こわ》くはないのかね。」
「ええ。」と妻は答えた。
「お前は、もう生きたいとは、ちょっとも思わないのかね。」
「あたし、死にたい。」
「うむ。」と彼は頷《うなず》いた。
二人には二人の心が硝子《ガラス》の両面から覗き合っている顔のようにはっきりと感じられた。
三
今は、彼の妻は、ただ生死の間を転っている一疋《いっぴき》の怪物だった。あの激しい熱情をもって彼を愛した妻は、いつの間にか尽《ことごと》く彼の前から消え失せてしまっていた。そうして、彼は? あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今は感情の擦《す》り切《き》れた一個の機
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