り減《へ》って来ると上目《うわめ》をつかって、暫く空を見ていてから
 「カネサント、オカサントユウベ」
と書いた。彼はその次を書かなかった。なぜかというと昨夜眼を醒《さま》した時、真暗な自分の横で母と男とが低い声で話していたのはもしかしたなら夢であったのかもしれぬと思ったから。しかし、男の堅い手がそっと自分の手を強く圧《おさ》えて直ぐひっこめたのは確《たしか》に夢ではなかったと思った。そして、彼はそれ以外に何も記憶になかった。
 彼は立ち上って石橋の上から去ろうとした、が、十歩ほど行くと後へ戻って橋の上の字を草履で消した。そしてもう一度書いてみたけれどもやはり消した。後はぶらぶら歩き出すと急に走り出した。走り出ると反《そ》り返《かえ》って白墨を高く頭の上へ投げて踏《ふ》み潰《つぶ》した。そしてまたぶらぶら五、六歩あるくと走り出した。
 村へは入った処で染物屋《そめものや》があった。米はそこの雨垂落《あまだれおち》に溜っている美しい砂を見ると蹲《しゃが》み込《こ》んでそれを両手で掬《すく》ってはばらばら落してみた。終《つ》いには両足を投げ出した。そして、大きな砂粒をかき去《の》けると人差
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