っていなかった。
米は姉に逢《あ》いたいと思った。殊に二人が喧嘩《けんか》した時のことを想い出すと溜《たま》らなく逢いたくなった。しかし彼は姉へ手紙を出す時、かばんと小刀《こがたな》とを帰りに買って来てくれとは必ず忘れずにいつも書いたが、逢いたくてならぬとか、早く帰ってくれとかは決して書かなかった。というのは、自分の愛情を現すことを羞《はずか》しく思いもしたし、また、そのことを母に見られるのをきまり悪く思ったからでもあった。
三
学枚の門を出る時、米は白墨を拾った。帰る途々《みちみち》、彼は何処か楽書《らくがき》をするに都合の好さそうな処をと捜しながら歩いた。土蔵《どぞう》の墨壁は一番魅力を持っていた。けれども余り綺麗《きれい》な壁であると一寸《いっすん》ほどの線を引いて満足しておいた。
村端まで来て、道の片側に沿って流れている小川にかかった御陰石《みかげいし》の橋を見た時、米は此処が最も楽書するのに適していると思った。そして最初に滑《なめら》かそうな処を撰《えら》んで本という字を懸命に書いてみた。草履《ぞうり》は拭物《ふきもの》の代りをした。彼は短い白墨が磨《す》
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