え》った。母は子の頭を膝から起して「待っておい。」といって笑いながら縁側の方へ立った。そして「下駄《げた》がないわ。」と呟いた。
 「下駄のような物|入《い》るものか。」
 と男はいうと彼女の手首を掴《つか》まえて背を向けると両手で彼女の足を抱いて歩き出した。母は男の背の上で「険《あぶな》い険い。」と笑い声でいった。
 子は縁側へ走り凭《よ》って戸袋《とぶくろ》からのり出した。すると男の背上で両足をかかえられている母が隣家の庭の真中でひょろひょろしているのを見た。子は男が憎くてならなかった。そして母が非常に悪いことをしているような気がした。
 「丁度好えぞ、兼さん。」
 赤い顔をした隣家の主人がそういって笑うと、傍の主婦は脱けた前歯を手で隠すようにして淡笑《うすわら》いをした。
 子は室《へや》へは入って障子の片端を胸に押しつけると、指を舐《な》めてぷすぷすと幾つも障子に穴をあけた。もう眠たくなかった。
 暫くして子は戸袋の処からまた隣家の庭をソッと覗《のぞ》いた。母が兼の横に坐って銚子《ちょうし》を捧《ささ》げるようにしているのが見えた。子はもう母が自分の方を向くだろうと思ってその方
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