ー将軍の感覚は正当であった。ナポレオンの腹の上では、径五寸の田虫が地図のように猖獗《しょうけつ》を極《きわ》めていた。この事実を知っていたものは貞淑無二な彼の前皇后ジョセフィヌただ一人であった。
 彼の肉体に植物の繁茂し始めた歴史の最初は、彼の雄図を確証した伊太利《イタリー》征伐のロジの戦の時である。彼の眼前で彼の率いた一兵卒が、弾丸に撃ち抜かれて顛倒《てんとう》した。彼はその銃を拾い上げると、先登を切って敵陣の中へ突入した。彼に続いて一大隊が、一聯隊が、そうして敵軍は崩れ出した。ナポレオンの燦然《さんぜん》たる栄光はその時から始まった。だが、彼の生涯を通して、アングロサクソンのように彼を苦しめた田虫もまた、同時にそのときの一兵卒の銃から肉体へ移って来た。
 ナポレオンの田虫は頑癬《がんせん》の一種であった。それは総《あら》ゆる皮膚病の中で、最も頑強《がんきょう》な痒《かゆ》さを与えて輪郭的に拡がる性質をもっていた。掻《か》けば花弁を踏みにじったような汁が出た。乾《かわ》けば素焼のように素朴な白色を現した。だが、その表面に一度爪が当ったときは、この湿疹《しっしん》性の白癬《はくせん》は
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