、全図を拡げて猛然と活動を開始した。
 或る日、ナポレオンは侍医を密《ひそ》かに呼ぶと、古い太鼓の皮のように光沢の消えた腹を出した。侍医は彼の傍《そば》へ、恭謙な禿頭《はげあたま》を近寄せて呟《つぶや》いた。
「Trichophycia, Eczema, Marginatum.」
 彼は頭を傾け変えるとボナパルトに云った。
「閣下、これは東洋の墨をお用いにならなければなりません」
 この時から、ナポレオンの腹の上には、東洋の墨が田虫の輪郭に従って、黒々と大きな地図を描き出した。しかし、ナポレオンの田虫は西班牙《スペイン》とはちがっていた。彼の爪が勃々《ぼつぼつ》たる雄図をもって、彼の腹を引っ掻き廻せば廻すほど、田虫はますます横に分裂した。ナポレオンの腹の上で、東洋の墨はますますその版図を拡張した。あたかもそれは、ナポレオンの軍馬が破竹のごとくオーストリアの領土を侵蝕《しんしょく》して行く地図の姿に相似していた。――この時からナポレオンの奇怪な哄笑は深夜の部屋の中で人知れず始められた。
 彼の田虫の活動はナポレオンの全身を戦慄《せんりつ》させた。その活動の最高頂は常に深夜に定っていた。彼
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