物が口を開けて黙々と進んで来た。
「陛下、お待ちなされませ、陛下」
彼女は空虚の空間を押しつけるように両手を上げた。
「陛下、暫くでございます。侍医をお呼びいたします」
ナポレオンは妃の腕を掴《つか》んだ。彼は黙って寝台の方へ引き返そうとした。
「陛下、お赦《ゆる》しなされませ。御無理をなされますと、私はウィーンへ帰ります」
磨《みが》かれた大理石の三面鏡に包まれた光の中で、ナポレオンとルイザとは明暗を閃《ひら》めかせつつ、分裂し粘着した。争う色彩の尖影《せんえい》が、屈折しながら鏡面で衝撃した。
「陛下、お気が狂わせられたのでございます。陛下、お放しなされませ」
しかし、ナポレオンの腕は彼女の首に絡《から》まりついた。彼女の髪は金色の渦を巻いてきらきらと慄えていた。ナポレオンの残忍性はルイザが藻掻《もが》けば藻掻くほど怒りと共に昂進《こうしん》した。彼は片手に彼女の頭髪を繩《なわ》のように巻きつけた。――逃げよ。余はコルシカの平民の息子である。余はフランスの貴族を滅ぼした。余は全世界の貴族を滅ぼすであろう。逃げよ。ハプスブルグの女。余は高貴と若さを誇る汝《なんじ》の肉体に、平
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