頑癬からも圧迫された。オーストリアの皇女、ハプスブルグの娘は、今初めて平民の醜さを眼前に見たのである。
 ナポレオンは彼女の傍へ身を近づけた。ルイザは緞帳の裾《すそ》を踏みながら、恐怖の眉を顰《しか》めて反《そ》り返った。今はナポレオンは妻の表情から敵を感じた。彼は彼女の手首をとって引き寄せた。
「寄れ、ルイザ」
「陛下、侍医をお呼びいたしましょう。暫くお待ちなされませ」
「寄れ」
 彼女は緞帳の襞《ひだ》に顔を突き当て、翻るように身を躍《おど》らせて、広間の方へ馳《か》け出した。ナポレオンは明らかに貴族の娘の侮辱を見た。彼は彼の何者よりも高き自尊心を打ち砕かれた。彼は突っ立ち上ると大理石の鏡面を片影のように辷《すべ》って行くハプスブルグの娘の後姿を睨んでいた。
「ルイザ」と彼は叫んだ。
 彼女の青ざめた顔が裸像の彫刻の間から振り返った。ナポレオンの烱々《けいけい》とした眼は緞帳の奥から輝いていた。すると、最早や彼女の足は慄えたまま動けなかった。ナポレオンは寝衣の襟を拡げたままルイザの方へ進んでいった。彼女はまたナポレオンの腹を見た。鎮まり返った夜の宮殿の一隅から、薄紅の地図のような怪
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