ただ裸像の彫刻だけが黙然と立っていた。すると、突然ナポレオンの腹の上で、彼の太い十本の指が固まった鉤《かぎ》のように動き出した。指は彼の寝巻を掻《か》きむしった。彼の腹は白痴のような田虫を浮かべて寝衣《ねまき》の襟《えり》の中から現れた。彼の爪は再び迅速な速さで腹の頑癬を掻き始めた。頑癬からは白い脱皮がめくれて来た。そうして、暫くは森閑とした宮殿の中で、脱皮を掻きむしるナポレオンの爪音だけが呟くようにぼりぼりと聞えていた。と、俄《にわか》に彼の太い眉毛《まゆげ》は、全身の苦痛を受け留めて慄《ふる》えて来た。
「余はナポレオン・ボナパルトだ。余はナポレオン・ボナパルトだ」
 彼は足に纏《まつ》わる絹の夜具を蹴《け》りつけた。
「余は、余は」
 彼は張り切った綱が切れたように、突如として笑い出した。だが、忽《たちま》ち彼の笑声が鎮《しず》まると、彼の腹は獣を入れた袋のように波打ち出した。彼はがばと跳《は》ね返った。彼の片手は緞帳の襞《ひだ》をひっ攫《つか》んだ。紅の襞は鋭い線を一握《ひとにぎり》の拳の中に集めながら、一揺れ毎に鐶《かん》を鳴らして辷《すべ》り出した。彼は枕《まくら》を攫んで投げつけた。彼はピラミッドを浮かべた寝台の彫刻へ広い額を擦《こす》りつけた。ナポレオンの汗はピラミッドの斜線の中へにじみ込んだ。緞帳は揺れ続けた。と彼は寝台の上に跳ね起きた。すると、再び彼は笑い出した。
「余は、余は、何物をも恐れはせぬぞ。余はアルプスを征服した。余はプロシャを撃ち破った。余はオーストリアを蹂躙《じゅうりん》した」だが、云いも終らぬ中に、ナポレオンの爪はまた練磨された機械のように腹の頑癬を掻き始めた。彼は寝台から飛び降りると、床の上へべたりと腹を押しつけた。彼の寝衣の背中に刺繍《ししゅう》されたアフガニスタンの金の猛鳥は、彼を鋭い爪で押しつけていた。と、見る間に、ナポレオンの口の下で、大理石の輝きは彼の苦悶《くもん》の息のために曇って来た。彼は腹の下の床石が温まり始めると、新鮮な水を追う魚のように、また大理石の新しい冷たさの上を這い廻った。
 丁度その時、鏡のような廻廊から、立像を映して近寄って来るルイザの桃色の寝衣姿を彼は見た。
 彼は起き上ることが出来なかった。何ぜなら、彼はまだ、ハプスブルグの娘、ルイザに腹の田虫を見せたことがなかったから。ルイザは呆然《ぼうぜん》
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