ナポレオンと田虫
横光利一

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)虹《にじ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)古今|未曾有《みぞう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)瑪瑙[#底本は「瑙」を「瑠」と誤植]
−−

        一

 ナポレオン・ボナパルトの腹は、チュイレリーの観台の上で、折からの虹《にじ》と対戦するかのように張り合っていた。その剛壮な腹の頂点では、コルシカ産の瑪瑙[#底本は「瑙」を「瑠」と誤植]《めのう》の釦《ボタン》が巴里《パリー》の半景を歪《ゆが》ませながら、幽《かす》かに妃《きさき》の指紋のために曇っていた。
 ネー将軍はナポレオンの背後から、ルクサンブールの空にその先端を消している虹の足を眺《なが》めていた。すると、ナポレオンは不意にネーの肩に手をかけた。
「お前はヨーロッパを征服する奴は何者だと思う」
「それは陛下が一番よく御存知でございましょう」
「いや、余よりもよく知っている奴がいそうに思う」
「何者でございます」
 ナポレオンは答の代りに、いきなりネーのバンドの留金がチョッキの下から、きらきらと夕映《ゆうばえ》に輝く程強く彼の肩を揺《ゆ》すって笑い出した。
 ネーにはナポレオンのこの奇怪な哄笑《こうしょう》の心理がわからなかった。ただ彼に揺すられながら、恐るべき占《うらない》から逃《の》がれた蛮人のような、大きな哄笑を身近に感じただけである。
「陛下、いかがなさいました」
 彼は語尾の言葉のままに口を開《あ》けて、暫《しばら》くナポレオンの顔を眺めていた。ナポレオンの唇《くちびる》は、間もなくサン・クルウの白い街道の遠景の上で、皮肉な線を描き出した。ネーには、このグロテスクな中に弱味を示したナポレオンの風貌《ふうぼう》は初めてであった。
「陛下、そのヨーロッパを征服する奴は何者でございます?」
「余だ、余だ」とナポレオンは片手を上げて冗談を示すと、階段の方へ歩き出した。
 ネーは彼の後から、いつもと違ったナポレオンの狂った青い肩の均衡を見詰めていた。
「ネー、今夜はモロッコの燕《つばめ》の巣をお前にやろう。ダントンがそれを食いたさに、椅子から転がり落ちたと云う代物《しろもの》だ」

        二

 その日のナポレオンの奇怪な哄笑に驚いたネ
次へ
全11ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング