ー将軍の感覚は正当であった。ナポレオンの腹の上では、径五寸の田虫が地図のように猖獗《しょうけつ》を極《きわ》めていた。この事実を知っていたものは貞淑無二な彼の前皇后ジョセフィヌただ一人であった。
 彼の肉体に植物の繁茂し始めた歴史の最初は、彼の雄図を確証した伊太利《イタリー》征伐のロジの戦の時である。彼の眼前で彼の率いた一兵卒が、弾丸に撃ち抜かれて顛倒《てんとう》した。彼はその銃を拾い上げると、先登を切って敵陣の中へ突入した。彼に続いて一大隊が、一聯隊が、そうして敵軍は崩れ出した。ナポレオンの燦然《さんぜん》たる栄光はその時から始まった。だが、彼の生涯を通して、アングロサクソンのように彼を苦しめた田虫もまた、同時にそのときの一兵卒の銃から肉体へ移って来た。
 ナポレオンの田虫は頑癬《がんせん》の一種であった。それは総《あら》ゆる皮膚病の中で、最も頑強《がんきょう》な痒《かゆ》さを与えて輪郭的に拡がる性質をもっていた。掻《か》けば花弁を踏みにじったような汁が出た。乾《かわ》けば素焼のように素朴な白色を現した。だが、その表面に一度爪が当ったときは、この湿疹《しっしん》性の白癬《はくせん》は、全図を拡げて猛然と活動を開始した。
 或る日、ナポレオンは侍医を密《ひそ》かに呼ぶと、古い太鼓の皮のように光沢の消えた腹を出した。侍医は彼の傍《そば》へ、恭謙な禿頭《はげあたま》を近寄せて呟《つぶや》いた。
「Trichophycia, Eczema, Marginatum.」
 彼は頭を傾け変えるとボナパルトに云った。
「閣下、これは東洋の墨をお用いにならなければなりません」
 この時から、ナポレオンの腹の上には、東洋の墨が田虫の輪郭に従って、黒々と大きな地図を描き出した。しかし、ナポレオンの田虫は西班牙《スペイン》とはちがっていた。彼の爪が勃々《ぼつぼつ》たる雄図をもって、彼の腹を引っ掻き廻せば廻すほど、田虫はますます横に分裂した。ナポレオンの腹の上で、東洋の墨はますますその版図を拡張した。あたかもそれは、ナポレオンの軍馬が破竹のごとくオーストリアの領土を侵蝕《しんしょく》して行く地図の姿に相似していた。――この時からナポレオンの奇怪な哄笑は深夜の部屋の中で人知れず始められた。
 彼の田虫の活動はナポレオンの全身を戦慄《せんりつ》させた。その活動の最高頂は常に深夜に定っていた。彼
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