の肉体が毛布の中で自身の温度のために膨張する。彼の田虫は分裂する。彼の爪は痒さに従って活動する。すると、ますます活動するのは田虫であった。ナポレオンの爪は彼の強烈な意志のままに暴力を振って対抗した。しかし、田虫には意志がなかった。ナポレオンの爪に猛烈な征服慾があればあるほど、田虫の戦闘力は紫色を呈して強まった。全世界を震撼《しんかん》させたナポレオンの一個の意志は、全力を挙《あ》げて、一枚の紙のごとき田虫と共に格闘した。しかし、最後にのた打ちながら征服しなければならなかったものは、ナポレオン・ボナパルトであった。彼は高価な寝台の彫刻に腹を当てて、打ちひしがれた獅子《しし》のように腹這《はらば》いながら、奇怪な哄笑を洩《もら》すのだ。
「余はナポレオン・ボナパルトだ。余は何者をも恐れぬぞ、余はナポレオン・ボナパルトだ」
 こうしてボナパルトの知られざる夜はいつも長く明けていった。その翌日になると、彼の政務の執行力は、論理のままに異常な果断を猛々《たけだけ》しく現すのが常であった。それは丁度、彼の猛烈な活力が昨夜の頑癬に復讐《ふくしゅう》しているかのようであった。
 そうして、彼は伊太利を征服し、西班牙を牽制《けんせい》し、エジプトへ突入し、オーストリアとデンマルクとスエーデンを侵略してフランスの皇帝の位についた。
 この間、彼のこの異常な果断のために戦死したフランスの壮丁は、百七十万人を数えられた。国内には廃兵が充満した。祷《いの》りの声が各戸の入口から聞えて来た。行人《こうじん》の喪章は到る処に見受けられた。しかし、ナポレオンは、まだ密かにロシアを遠征する機会を狙《ねら》ってやめなかった。この蓋世《がいせい》不抜の一代の英気は、またナポレオンの腹の田虫をいつまでも癒《なお》す暇を与えなかった。そうして彼の田虫は彼の腹へ癌《がん》のようにますます深刻に根を張っていった。この腹に田虫を繁茂させながら、なおかつヨーロッパの天地を攪乱《こうらん》させているナポレオンの姿を見ていると、それは丁度、彼の腹の上の奇怪な田虫が、黙々としてヨーロッパの天地を攪乱しているかのようであった。

        三

 ナポレオンはジェーエーブローの条約を締結してオーストリアから凱旋《がいせん》すると、彼の糟糠《そうこう》の妻ジョセフィヌを離婚した。そうして、彼はフランスの皇帝の権威を完全
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