値のために、彼の伊太利と腹の田虫とを交換したかも知れなかった。こうして森厳な伝統の娘、ハプスブルグのルイザを妻としたコルシカ島の平民ナポレオンは、一度ヨーロッパ最高の君主となって納まると、今まで彼の幸福を支《ささ》えて来た彼自身の恵まれた英気は、俄然《がぜん》として虚栄心に変って来た。このときから、彼のさしもの天賦の幸運は揺れ始めた。それは丁度、彼の田虫が彼を幸運の絶頂から引き摺《ず》り落すべき醜悪な平民の体臭を、彼の腹から嗅《か》ぎつけたかのようであった。
四
千八百四年、パリーの春は深まっていった。そうして、ロシアの大平原からは氷が溶けた。
或る日、ナポレオンはその勃々《ぼつぼつ》たる傲慢《ごうまん》な虚栄のままに、いよいよ国民にとって最も苦痛なロシア遠征を決議せんとして諸将を宮殿に集合した。その夜、議事の進行するに連れて、思わずもナポレオンの無謀な意志に反対する諸将が続々と現れ出した。このためナポレオンは終《つい》に遠征の反対者将軍デクレスと数時間に渡って激論を戦わさなければならなかった。デクレスはナポレオンの征戦に次ぐ征戦のため、フランス国の財政の欠乏の人口の減少と、人民の怨嗟《えんさ》と、戦いに対する国民の飽満とを指摘してナポレオンに詰め寄った。だが、ナポレオンはヨーロッパの平和克復の使命を楯《たて》にとって応じなかった。デクレスは最後に席を蹴《け》って立ち上ると、慰撫《いぶ》する傍のネー将軍に向って云った。
「陛下は気が狂った。陛下は全フランスを殺すであろう。万事終った。ネー将軍よ、さらばである」
ナポレオンはデクレスが帰ると、忿懣《ふんまん》の色を表してひとり自分の寝室へ戻って来た。だが彼はこの大遠征の計画の裏に、絶えず自分のルイザに対する弱い歓心が潜んでいたのを考えた。殊にそのため部下の諸将と争わなければならなかったこの夜の会議の終局を思うと、彼は腹立たしい淋しさの中で次第にルイザが不快に重苦しくなって来た。そうして、彼の胸底からは古いジョセフィヌの愛がちらちらと光を上げた。彼はこの夜、そのまま皇后ルイザにも逢わず、ひとり怒りながら眠りについた。
ナポレオンの寝室では、寒水石の寝台が、ペルシャの鹿を浮かべた緋緞帳《ひどんちょう》に囲まれて彼の寝顔を捧《ささ》げていた。夜は更《ふ》けていった。広い宮殿の廻廊からは人影が消えて
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