知つた。そのときから、十数万円の家産を持つてゐる判事の感情は、彼の理智がマルクスの理論の堂々とした正しさを肯定すればするほど、その系統に属する一切の社会思想に反感と恐怖と敵意とを持つにいたつた。この彼の感情は頻々として起る様々な社会運動の勃発する度毎に、極めて敏感に恐怖をもつて激しく揺れた。このため彼の正しくあらねばならなかつた審問と判決との上に、どれほど多くの影響を与へてゐたかと云ふことを考へたことはまだ彼には曽てなかつた。しかし、今判事の理智はその方へ向つて来た。彼は前に被告が傭員の時間短縮を鉄道局へ迫つた事件に関係してゐたと云ふことを知つたとき、直ちに自分の社会運動を防衛したがる習慣的な恐怖が、審問の最初から自然被告を敵の立場に置いてかかつてゐたことに気がついた。勿論役目の立場として被告に疑ひを向けてかゝらなければならないのは分つてゐるとしても、しかし事実自分の疑ひはただ単にそのためにばかり深められてゐたとは判事にも思へなかつた。それを知ると、被告の貧しい上に労働が激しければ激しいほど、他人から時間短縮の訴へに誘はれれば教養のない程度に比例して、それだけ被告のその運動に熱情のでることは別に何の不思議もないやうに思はれ出した。それに被告が無智であればあるほど富貴な蕩児に反感を持つたにちがひないとの前の自分の推断は、論理に於て一見正しさうではあるが、その実、それは逆に無智であればあるほど相手の富貴が直接に影響を被告に与へてゐない限り、なほそれだけ相手に反感を持ち得なさうに思へば思ふことが出来て来た。無論被告と酔漢とが争つた以上、そこに何かの反感のあつたことは疑へない事実ではあつた。だがそれとて、自分が被告に向けてゐた敵のやうな反感とはちがつて、被告の反感はただ自由な蕩児を羨むありふれたものであつたにちがひないと思はれ出すと、今迄自分にしつこくつき纏つてゐた被告に対する疑ひも、故意に酔漢を突き飛ばしてまで殺すにいたる種類の反感であつたとは、どうしても思はれなくなつて来た。すると、ただ勝手に自分が被告を危険思想を抱いてゐる者として、ただ勝手に被告を敵の立場に置いてかかつた自分の恐怖心が判事には急に馬鹿らしく羞しくなつて来た。それに判事は自分のために悲しみを投げつけられたそのときの被告のいかにも悲しさうな顔つきを思ひ出した。これは判事の気持ちを被告の孤独な気持ちの中へ全
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