マルクスの審判
横光利一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)月《にくづき》

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(例)※[#「さんずい」、第4水準2−78−17]
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 市街を貫いて来た一条の道路が遊廓街へ入らうとする首の所を鉄道が横切つてゐる。其処は危険な所だ。被告はそこの踏切の番人である。彼は先夜遅く道路を鎖で遮断したとき一人の酔漢と争つた。酔漢は番人の引き止めてゐるその鎖を腹にあてたまま無理にぐんぐんと前へ出た。丁度そのとき下りの貨物列車が踏切を通過した。酔漢は跳ね飛ばされて轢死した。
 そこで、予審判事は、番人とはかやうな轢死を未然に防ぐための番人である以上、泥酔者の轢死は故殺であるかそれとも偶然の死であるかを探ぐるがため許りにさへも、そのときの争ひに作用した番人の心理の上に十分の疑ひを持たねばならなかつた。それに彼はその疑ひをなほ一層確実に疑ひ得られる様々の材料を発見した。第一に番人は貧しい独身者であつた。第二に轢死者は資産家の蕩児であつた。第三に番人のゐる踏切が遊廓街の入口であつた。しかし、此の被告の上に明確な判決を下すことは、事件そのものが心理的なものであるだけに容易なことではなかつた。先づその事件の現状を目撃したものがなかつたと云ふことでさへ、判事にとつて此の審問方法は普通の手ではとても無駄だと分つてゐた。
「お前は四十一だと云つたね。妻を貰つたならどうだ。生活に困るのかな。」
「いえ、別に困りはいたしません。」
「と云ふと、望ましいのがないからか。」
「来てくれる者がないんです。」
「ふむ、では、呉れ手のあるまで捜せばよいではないか。」
「私はこれでもう三度妻を変へたのです。」
「三度な?」と云って判事は一寸笑つた。「それはまたどうしたのだね。」
「皆死んで了つたんです。」
「ふむ、死んだのか、それでその来るものがないと云ふのか。」
「いえ、三人とも同じ病気で死んだからだと思ひます。」
「三人とも同じ病気か、成る程ね、そして、それはどう云ふ病気かね。」
 さう訊いたとき判事は被告の窪んだ眼窩の底から恐怖を感じさせる一種不思議な微笑を見てとつた。そして、これは烈しい神経衰弱にかかつてゐるなと思ひながらも、被告の答へた膜と
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