云ふ婦人病の四番目の文字は「月《にくづき》」であつたかそれとも「※[#「さんずい」、第4水準2−78−17]《さんずい》」であつたかと一寸考へてみてから直ぐ又質問を次へ移した。
「それで何か、その夜お前は酒を少しも飲んではゐなかつたか。」
「飲みませんでした。」
「いつもは飲むんだらうね。」
「さう飲むと云ふほどは飲めません。」
「お前はあの踏切の最初からの番人だつたのだね。」
「はい。」
「失策《しくじり》が一度もなかつたさうだが、それはほんたうか。」
「妻のゐる頃は妻が時々やりました。私にはありませんでした。」
「何年踏切につとめてゐる?」
「十九年です。」
「十九年か、ふむ。」これはなかなか気の小さい男だと判事は思つた。
「十九年と云ふと、お前の幾つの時からかね、二十?」
「二十五の時からです。初めはちよいちよい失策をやりました。それでも私は失策つたと思ひましても他人には解らずにすみました。」
 何ぜ被告がさう云ふことを自分から云ひ出すのかよく判事には分らなかつた。「私の失策と云ふと、つまりどう云ふんだね。」
「列車の来る時が来ればシグナルを見なくても少々遠くにゐても分りますが、考へごとをしてゐると直ぐ傍へ来なければ分りません。さう云ふときこれは失敗《しまつ》たと思ひまして周章て鎖を引きますがいつも半分程通つてからです。」
「つまり考へごとをするといけないと云ふのか。」
「はい、考へごとをするといけません。」
「考へごとと云ふと、どんな種類の考へごとかな、どう云つたやうな?」
「家内のことを考へます。」
「家内がないと云つたぢやないか、ア、さうか、つまり三人の妻のことなのか、それでどの家内に一番心をひかれるね。」
「一番目の家内です。」
「優しかつたのか。」
「いえ。」
「お前が愛してゐたのだね。」
「さう云ふわけぢやございませんが、何ぜだか最初のがよく心に浮んで参ります。」
「最初のがね、ふむ、その頃は楽しかつたと見えるな。楽しかつたかね。」
「今から思ふとさう思ひます。」
「此の頃はもう楽しみなことはないか。」
「ありません。」
「何もないか。」
「はい。」
「では、勤めもいやなことだらうね。」
「はい。」
「いやか、勤めは?」
「はい、あまり好きではございません。」
「ふむ、それでお前は何か、お前の踏切りでお前の勤務時間以外のときに轢死人があつても、お前
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