く職権から放れて入り込ませるのに力があつた。それはいかに考へても淋しいものにちがひなかつた。総ての生活の楽しみを運命的に奪はれてゐる男、その運命をつき抜けて行けない男、それが絶えず最も楽しみの焦点である街の入口で、絶えずそれらの歓楽を眺め続け、そこへ入り込む者達のために危険を教へ続けてゐなければならないと云ふことは、とにかく想像しても最も苦痛な生活の一つであるのは分つてゐた。しかし、判事は自分のただ一片の不純な恐怖のために、無罪で済まされる可きその憐れな男を今にも重罪に落し込まうとしてゐた自分のことを考へた。彼は自分の罪を感じてひやりとなつた。
「無罪にしよう。無罪だ。」
さう彼はひとり決定すると、急に掌を返すやうな爽快な気持ちになつた。
「これや俺の罪ぢやないぞ。マルクスの罪だ!」
彼は突然に大声で笑ひ出した。
「いや、何に、かまつたことはない。証拠物件として何がある。蕩児よりも番人だ!」
今は判事も全く晴れ晴れとした気持ちであつた。そして、今迄長らく自分を恐喝してゐた恐怖も、不思議に自分から飛び去つてゐるのを彼は感じた。
暫くすると、彼は安らかに眠つてゐた。丁度、マルクスに無罪を宣告された罪人であるかのやうに。
底本:「定本横光利一全集 第一巻」河出書房新社
1981(昭和56)年6月30日初版発行
底本の親本:「御身」金星堂
1924(大正13)年5月20日発行
初出:「新潮」新潮社
1923(大正12)年8月1日発行、第39巻第2号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月11日公開
2005年11月6日修正
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