た。そればかりではなかつた。彼は彼自身漸く握り得たと思つた疑ひの確証さへも再び前のやうに取り失つた。何ぜかと云へば、彼は自分の手段が自分ながらいかにも巧妙であつたと賞讃したい程であつたから。実際いかなるものと云へども、譬へばもしも明らかに故意の殺人ではなかつたと知り得ることの出来る判事自身でさへ、被告の立場に置かれたとき、その巧みな判事の言葉のために被告と同じ悲しみの言動に落されない者はあつたであらうか。それを思ふと、判事の疑ひは却つて彼自身の弁舌の巧みさに邪魔されてまた尽く迷蒙の中に這入つていつた。しかし、それかと云つて彼はまだ自分の疑ひを捨て去ることは出来なかつた。そこで、彼は被告から最も信用すべき自白の言葉をきくためには、今一度被告に投げ与へた悲しみを逆に取り消してかからなければならないのを知つた。
「お前は前にあの酔漢を見たと云つたね。」
 被告は答へなかつた。
「よく知つてゐたのかな。」
 被告は何かを飲み込むやうに「はい。」と云つた。
「あの男はいつも泥酔してゐたのかね。」
「はい。」
「お前は妻のあつたとき、廓へは行つたことがあつたか。」
「ございません。」と被告は鼻声で云ふと赤くなつた眼で判事を見た。
「ふむ、お前はあの酔漢の妻が困つてゐたのを知つてゐたのか。あの妻は困つてゐたのだ。毎夜毎夜良人が夜遊びをして家を空けるので困つてゐたと云ふことだ。お前は何かね、あの男と妻とが、いつも争ひをし続けてゐたのも知らなかつたのかね。」
「はい。」と云つて、被告は鼻を拭いたが、直ぐまた頭をかかへた。
「妻から離縁を迫られてゐたさうだ。ああ云ふ放蕩者は実際の所を云ふと、死んでも別に差し閊へがないのだが、本官は一応取り検べる必要上お前を悲しませてみただけである。さう悲しまなくともよい。多分お前は列車の近づくのが分らなかつたのであらうね。」
 被告は黙つてゐた。
「お前は最後までその男の出て行くのを引きとめてゐたのであらうな。」
 矢張り被告は答へなかつた。彼は大きく溜息をつくと顔を顰めた。
「そこが大切な所ではないか。どうだ。さうであらう。」
「はい。」
 さう被告は低く答へると涙がまた頬を伝つて流れ出した。
 自分の言葉のために被告の態度がどんなに変つてゆくかと云ふことを眺めてゐた判事には、被告の様子がまだいかにも悲しさうに見えた。しかし、彼には被告の悲しみは自分
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