全然いいことをしたのではなからう。たとひお前がどれほど正当であるにしろ、お前はあの踏切りでさう云ふ轢死人のないためにと置かれた番人ではないか。それにお前があの男の傍にゐなかつたらともかく、さうではなくてお前が現にその傍についてゐたのだからね。そればかりではない、お前がもしそのとき、そこにゐなかつたなら、却つてあの男も助かつてゐただらう。それにお前がゐたばかりにあの男は死んだのだ。あの男の妻はお前のことをどんな風に思てゐるか考へたことはないかな。」
判事の方を見た被告の眼は急に光つて来た。
「お前は妻のあつたときは楽しかつたであらう。」
「はい。」と被告は小さく云つた。
「お前は妻と子のある立派な一人の男を殺したのだとは思はないか。お前には楽しいことが何もないと云つたが、それは成る程よく分る。だが、あの男にはまだまだ楽いことがあつたのだ。世の中が面白かつたのだ。さう思ふであらう。」
被告は黙つて俯向いてゐた。
「あの男が死んだなら、妻と子供はどんなに困ると思ふ。お前はいゝ。お前はひとりで淋しく暮さねばならぬと云つてもそれは仕方がない。だが、残つたあの男の妻と子供は、何もわざわざ淋しく暮さないでもよいものを一生淋しく暮さねばならないのだ。お前はたとひ自分のしたことが正当だと思つても、死人の妻や子供はいつまでもお前を恨んでゐるにちがひない。矢張りお前に殺されたのだと思つてゐるにちがひない。それはお前がいくら正当だと云ひ張つたにしろ、さうは思ふまい。矢張り殺したのはお前であつて他の誰でもないのだからな。」
判事は被告の頭が垂れ下つて行くのを眺めてゐた。
「ここだツ。」と判事は思つた。彼は勝ち誇つた気持ちになつた。「お前はその男を突き飛ばしたのであらう。」と云ひたかつた。が、そのとき、被告は急に頭を上げると怒つたやうな表情をして判事を睥んだ。すると、突然腹痛でも起つたかのやうに彼の顔が顰み出すと、涙が頬を伝つて落ち始めた。
「私が殺しました。はい殺しました。」
何かに引つかかるやうな声でさう被告は云つた。判事は訳の分らぬ昂奮を感じて来た。
「お前はまだ踏切番がしたいかな。」と判事はまるきり心にもないことを訊いた。
被告は椅子の上へ腰を降すと頭をかゝへ込んだまゝ答へなかつた。
判事はかうも手易く誘ひ込まれて来た被告を思ふと、急に今迄の勝ち誇つた気持ちが薄らぐのを感じ
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