山《たてやま》(素藤《もとふじ》の居城)というは今も同じ地名の布施村や国府台《こうのだい》に近接する立山《たてやま》であろう。稲村まではかなりの里程があって、『八犬伝』でも一泊二日路であるが、妙椿が浜路を誘拐するに幻術で雲にでも乗って来たら宜さそうなもんだのに、小脇に引っ抱えてズルんかズルんか引き摺って来て南弥六《なみろく》に邪魔をされ折角誘拐して来た浜路を伏姫神霊に取り返される。素藤が初め捕われて再挙を謀る間潜伏した山というはどの辺を指すのか解らぬが、夷隅《いすみ》は海岸を除いては全郡山地があるが山がすべて浅くて且つ低くて人跡未到というような感じのある処はなさそうだ。房総はすべて馬の背のような地形で、山脈が連亘《れんこう》して中央部を走っているが、高山も大山もない。伏姫が山入した富山(トミサンと呼ぶ、トヤマでもトミヤマでもない)の如きも、『八犬伝』に形容されてるような高峻な山ではない。最高峰の観音堂は『八犬伝』に由《よ》ると義実《よしさね》の建立となってるが、寺記には孝謙天皇の御造立となっている。安房は国史にはかなり古いが、徳川氏が江戸を開く以前は中央首都から遠い辺陲《へんすい》の半島であったから極めて歴史に乏しく、したがって漁業地としてのほかは余り認められていない。安房が著名になったのは全く『八犬伝』以来であるから、『八犬伝』の旧蹟は準史蹟として見てもイイかも知れない。
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(『八犬伝』の地理学は起稿当初の腹案であったが、実地を踏査しなければ解らぬ個処が存外多いのですべて他日の機会に譲ることにした。『八犬伝』地図も添ゆる予定であったが、同じ理由で。)
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       五 馬琴の日記

『八犬伝』が日本の小説中飛び離れて挺《ぬき》んでている如く、馬琴の人物もまた嶄然《ざんぜん》として卓出している。とかくの評はあっても馬琴の如く自ら信ずるところ厚く、天下の師を以て任じたのは他にはない。古今作者を列べて著述の量の多いのと、なかんずく大作に富めると、その作の規模結構の大なると、その態度の厳粛なると、その識見の高邁《こうまい》なると、よく馬琴に企て及ぶものは殆んどない。
 が、作に秀でたのは、鯛よりは鰯の生きのイイ方が旨《うま》い、牡丹よりは菜の花の方が風情《ふぜい》があるというと同じ好《す》き不好《ぶす》きを別として大抵異論はないが、人物となるとまた、古今馬琴の如く嫌われてるのは少ない。或る雑誌で、古今文人の好き嫌いという題で現代文人の答案を求めたに対し、大抵な人が馬琴を嫌いというに一致し、馬琴を好きと答えたものは一人もなかった。ただに現代人のみならず、その当時からして馬琴は嫌われていた。正面から馬琴に怨声を放って挑戦したのは京山《きょうざん》一人であったが、少なくも馬琴が作者間に孤立していて余り交際しなかった一事に徴するも、馬琴に対して余り好感を持つものがなかったのは推測《おしはか》られる。馬琴が交際していたのは同じ作者仲間よりはむしろ愛読者、殊に遠方の文書で交際する殿村篠斎《とのむらじょうさい》の連中であって親しくその家に出入して教を乞うものでなかった。ただ文書を以て交際するだけなら折々小面倒で嫌気《いやき》を生ずる事があってもそれほど深く身に染《し》みないが、面と向っては容易に親しまれないで、小難《こむず》かしくて気ブッセイで堪えられなかったろう。とかくに気難《きむず》かしくて機嫌の取りにくかったのは、家人からでさえ余り喜ばれなかったのを以てもその人となりを知るべきである。
 京伝と仲たがいした真因は判然しないが、京山の『蜘蛛の糸巻』、馬琴の『伊波伝毛之記《いわでものき》』および『作者部類』を照らし合わしてみると、彼我のいうところ(多少の身勝手や、世間躰を飾った自己弁護はあっても)、みな真実であろう。馬琴が京伝や蔦重《つたじゅう》の家を転々して食客となり、処女作『尽用而二分狂言《つかいはたしてにぶきょうげん》』に京伝門人大栄山人と署したは蔽い難い。僅か三歳でも年長者であるし、その時既に相応の名を成していたから、作者として世間へ乗り出すには多少の力を仰いだ事はあろうが、著作上教えられる事が余り多くあったとは思われない。京伝門人と署したのは衣食の世話になった先輩に対する礼儀であって、師礼を執って教を受けた関係でなかったのは容易に想像される。玄関番の書生が主人を先生と呼ぶようなものだ。もっとも一字の師恩、一飯の恩という事もあり、主従師弟の厳《やか》ましかった時代だから、両者の関係が漸く疎隔して馬琴の盛名がオサオサ京伝を凌がんとすると京伝側が余り快く思わぬは無理もないが、馬琴が京伝に頼った頃の何十年も昔の内輪咄《うちわばなし》を剔抉《すっぱぬ》いて恩人風を吹かし、人倫とはいい難しとまで京山が罵るのは決して穏やかでない。小身であっても武家奉公をし、医を志した馬琴である。下駄屋の入夫《にゅうふ》を嫌って千蔭《ちかげ》に入門して習字の師匠となった馬琴である。その頃はもう黄表紙《きびょうし》時代と変って同じ戯作《げさく》の筆を執っていても自作に漢文の序文を書き漢詩の像讃をした見識であったから、昔を忘れたのは余り褒《ほ》められないが幇間《ほうかん》芸人に伍する作者の仲間入りを屑《いさぎよ》しとしなかったのは万更無理はなかった。馬琴に限らず風来《ふうらい》なぞも戯作に遊んだが作者の仲間附合はしなかったので、多少の見識あるものは当時の作者の仲間入りを欲しなかったのみならず作者からもまた仲間はずれにされたのである。
 だが、馬琴は出身の当初から京伝を敵手と見て競争していたので、群小作者を下目《しため》に見ていても京伝の勝れた作才には一目置いていた。『作者部類』に、あの自尊心の強い馬琴が自ら、「臭草紙《くさぞうし》は馬琴、京伝に及ばず、読本《よみほん》は京伝、馬琴に及ばず」と案外公平な評をしているのは馬琴が一歩譲るところがあったからだろう。それと同様、『蜘蛛の糸巻』に馬琴を出藍の才子と称し、「読本といふもの、天和《てんな》の西鶴《さいかく》に起り、自笑《じしょう》・其磧《きせき》、宝永正徳《ほうえいしょうとく》に鳴りしが馬琴には三舎すべし」と、京伝側を代表する京山が、これもまた案外公平な説を立ててるのは、京伝・馬琴が両々相対して下らざる互角の雄と見做《みな》したのが当時の公論であったのだろう。二人は遠く離れて睨み合っていても天下の英雄は使君と操とのみと互いに相許していたに違いない。が、京伝は文化十三年馬琴に先んじて死し、馬琴はそれ以後『八犬伝』の巻を重ねていよいよ文名を高くし、京伝に及ばずと自ら認めた臭草紙でも『傾城《けいせい》水滸伝』や『金毘羅船《こんぴらぶね》』のような名篇を続出して、盛名もはや京伝の論ではなくなっている。馬琴としては区々世評の如きは褒貶《ほうへん》共に超越して顧みないでも、たとえば北辰《ほくしん》その所にいて衆星これを繞《めぐ》るが如くであるべきである。それにもかかわらず、とかくに自己を挙げて京伝を貶《へん》する如き口吻《こうふん》を洩らすは京山のいう如く全くこの人にしてこの病ありで、この一癖が馬琴の鼎《かなえ》の軽重を問わしめる。
 馬琴の人物行状の巨細《こさい》を知るにはかれの生活記録たる日記がある。この日記はイツ頃から附け初めイツ頃で終わってるか知らぬが、今残ってるのは晩年の分である。あの筆豆から推せば若い時から附けていたに違いないが、先年馬琴の家からひと纏めに某氏の手へ渡った自筆文書の中には若い時の日記はない。この分は今、全部早稲田大学図書館に移管されている。震災に亡びた帝大図書館のは、ドコから買い入れたか出所来歴を知らぬがそれより以前に滝沢家から出たものらしい。マダそのほかにも散逸したものがドコかに残ってると思うが、所在を明らかにしない。帝大のは偶然館外に貸出してあった一冊が震火を免かれて今残っている。この一冊と早大図書館所蔵本とが今残ってる馬琴日記の全部である。この早稲田本を早大に移る以前に抄録解説したのが饗庭篁村《あえばこうそん》氏の『馬琴日記抄』であって、天保二年の分を全冊転印されたのが和田万吉氏の『馬琴日記』(原本焼失)である。
 饗庭氏の抄録本もしくは和田氏の校訂本によって馬琴の日記を読んだものは、誰でもその記載の事項が細大洩らさず綿密に認《したた》められたのを驚嘆せずにはいられない。毎日の天候気温、出入客来、他出等、尋常日記に載すべき事項のほかに、祭事、仏事、音物《いんぶつ》、到来品、買物、近親交友間の消息、来客の用談世間咄、出入商人職人等の近事、奉公人の移り換、給金の前渡しや貸越や、慶庵や請人《うけにん》の不埒《ふらち》、鼠が天井で騒ぐ困り咄、隣りの猫に※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]《さかな》を取られた不平咄、毎日の出来事を些細の問題まで洗いざらい落なく書き上げておる。殊に原本は十五、六行の蠅頭《ようとう》細字で認めた一年一冊およそ百余|張《ちょう》の半紙本である。アレだけの著述をした上にこれだけの丹念な日記を毎日怠らず附けた気根の強さ加減は驚くに余りある。日記その物が馬琴の精力絶倫を語っておる。
 更にその内容を検すると、馬琴が日常の極めて些細な問題にまで、いちいち重箱の隅をホジクルような小理窟を列べてこだわる気難《きむず》かし屋であるに驚く。それもいいが、いつまでもサッパリしないでネチネチと際限なくごてる[#「ごてる」に傍点]。ただ読んでさえ七《しち》むずかしいのに弱らせられるんだから、あの気難かし屋に捉まったら災難だ、頭からガミガミと叱られるなら我慢し易いが、ネチネチとトロ火で油煎《あぶらいり》されるように痛めつけられたら精も根も竭《つ》きて節々《ふしぶし》までグタグタになってしまうと、恐れを成さずにはいられまい。馬琴がアレだけの学問技能を抱いて、アレだけの大仕事をして、アレだけの愛読者、崇拝者を持ちながら近づくものが少なくて孤立したのはあの気難かし屋からである。馬琴の剛愎高慢は名代《なだい》のもので、同時代のものは皆人もなげなる態度に腹を立ったものだそうだが、剛愎高慢は威張らして置けば済むからかえって御《ぎょ》し易《やす》いが、些細な問題にいちいち角を立ててその上にイツマデも根に葉に持っていられたり、あるいは意地悪婆さんの嫁いびりのように、ネチネチ、チクチクとやられてはとても助からない。和田君の校訂本を読んだものは誰も直ぐ気が付くが、馬琴の家の下婢の出代りの頻繁なのは殆んど応接に遑《いとま》あらずだ。その度毎に給金の前渡しや貸越が必ず附帯する。それんばかしの金をくれてしまったらと思うが、馬琴は寸毫も仮借しない。いちいち請人を呼びつけて厳重に談じつける。鄙吝《ひりん》でもあったろうが、鄙吝よりは下女風情に甘く嘗《な》められてはという難《むず》かし屋の理窟屋の腹の虫が承知しないのだ。一体馬琴の女房のお百というがなかなかの難物らしかったが、その上に主翁の馬琴が偏屈人の小言幸兵衛《こごとこうべえ》と来ては女中の尻の据わらなかったのも無理はない。馬琴の家庭は日記の上では一年中低気圧に脅かされ通しで、春風|駘蕩《たいとう》というような長閑《のどか》なユックリとした日は一日もなかったようだ。老妻お百と※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》のお道との三角葛藤はしばしば問題となるが、馬琴に後暗い弱点がなくとも一家の主人が些細な家事にまでアア七《しち》むずかしい理窟をこねるようでは家が悶《も》める。馬琴はただに他人ばかりでなく家族にさえも余り喜ばれなかった苛細冷酷な偏屈者であった。
 一言すれば理窟ばかりで、面白味も温味《あたたかみ》もない冷たい重苦しい感じのする人物だった。世辞も愛嬌もないブッキラ棒な無愛想な男だった。崇拝者も相応に多くて、遥々遠方から会いに来る人もあったが、木で鼻を括《くく》ったような態度で面白くもない講釈を聞かされ、まかり間違えば叱言《こごと》を喰ったり揚足を取られたりするから一度で懲り懲りしてしまう。アレだけ綿
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