》のない愚人もあるが、八犬士は皆文武の才があって智慮分別があり過ぎる。その中で道節が短気で粗忽《そこつ》で一番人間味がある。一生定正を君父の仇と覘《ねら》って二度も失敗《やりそこ》なっている。里見の防禦使となって堂々対敵しても逃路に待ち伏せする野武士のような役目を振られて、シカモ首尾よく取り逃がして小水門目《こみなとさかん》輩|孺子《じゅし》をして名を成さしめてる。何をやらしてもヘマばかりするところに道節の人間味がある。道節を除いては、小文吾が曳手《ひくて》・単節《ひとよ》を送って途中で二人を乗せた馬に駈け出されて見失ってしまったり、荒野猪《あれいのしし》を踏み殺して牙《きば》に掛けられた猟師を助けたはイイが、恩を仇の泥棒猟師の女房にコロリと一杯喰ってアベコベにフン縛《じば》られる田舎相撲らしい総身に知恵の廻り兼ぬるドジを時々踏むほかは、皆余りに出来過ぎている。なかんずく、親兵衛に到って極まる。
『八犬伝』には幾多の興味ある挿話《エピソード》がある。例えば船虫《ふなむし》の一生の如き、単なる一挿話とするには惜しい話材である。初めは行き暮れた旅人を泊らしては路銀を窃《ぬす》む悪猟師の女房、次には※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》いびりの猫化郷士《ねこばけごうし》の妻、三転して追剥《おいはぎ》の女房の女按摩となり、最後に折助《おりすけ》の嬶《かかあ》となって亭主と馴れ合いに賊を働く夜鷹《よたか》となり、牛裂《うしざき》の私刑に波瀾の多い一生の幕を閉ずる一種の変態性格である。これだけでも一部の小説とするに足る。また例えば素藤《もとふじ》の如き、妙椿《みょうちん》が現れて幻術で助けるようになってはツマラないが、浮浪の盗賊からとにかく一城の主となった経路には梟雄《きょうゆう》の智略がある。妙椿の指金《さしがね》で里見に縁談を申し込むようになっては愚慢の大将であるが、里見を初め附近の城主を籠罩《ろうとう》して城主の位置を承認せしめたは尋常草賊の智恵ではない。馬琴はとかくに忠孝の講釈をするので道学先生視されて、小説を忌む鴆毒《ちんどく》に等しい文芸憎悪者にも馬琴だけは除外例になって感服されてるが、いずくんぞ知らん馬琴は忠臣孝子よりは悪漢淫婦を描くにヨリ以上の老熟を示しておる。『美少年録』が(未完成ではあるが)代表作の一つである『弓張月』よりもかえって成功しているはその一例である。

       四 『八犬伝』の歴史地理

 馬琴は博覧強記を称されもすれば自ら任じもした。殊に歴史地理の考証については該博精透なる尋究を以て聞えていた。正当なる歴史を標榜する史籍さえ往々|不穿鑿《ふせんさく》なる史実を伝えて毫も怪しまない時代であるから、ましてや稗官《はいかん》野乗《やじょう》がいい加減な出鱈目《でたらめ》を列べるのも少しも不思議はない。馬琴自身が決して歴史の参考書として小説を作ったのでないのは明らかで、多少の歴史上の錯誤があったからとて何ら文芸上の価値を累《るい》するに足らないのである。馬琴の作が考証|精覈《せいかく》で歴史上または地理上の調査が行届いてるなぞと感服するのは贔屓《ひいき》の引倒しで、馬琴に取ってはこの上もない難有《ありがた》迷惑であろう。ただ馬琴は平素の博覧癖から何事も精《くわ》しく調査したらしく思われる処に損もあり得もある。『房総志料』を唯一の手品の種子《たね》箱とする『八犬伝』の歴史地理の穿鑿の如きはそもそも言うものの誤りである。余り偏痴気論を振り廻したくないが、世間には存外な贔屓の引き倒しもあるから、ただ一個条憎まれ口を叩いておこう。(無論『八犬伝』の光輝はソンナ大向うの半畳《はんじょう》で曇らされるのではない。)
 金碗大輔《かなまりだいすけ》が八房《やつふさ》もろとも伏姫をも二つ玉で撃留《うちと》めたのはこの長物語の序開きをするセラエヴォの一発となってるが、日本に鉄砲が伝来したのが天文十二年であるは小学校の教科書にも載ってる。もっとも天文十二年説は疑問で、数年前にも数回歴史家の間に論争されたが、たといそれ以前に渡ったものがあったにしてもそれよりおよそ八十年前の(伏姫が死んだ年の)長禄《ちょうろく》の二年に房州の田舎武士の金碗大輔がドコから鉄砲を手に入れたろう。これを始めに『八犬伝』には余り頻繁に鉄砲が出過ぎる。白井の城下で道節が上杉勢に囲まれた時も鉄砲足軽が筒を揃えて道節に迫った、曳手《ひくて》・単節《ひとよ》が荒芽山《あらめやま》を落ちる時も野武士に鉄砲で追われた、網苧《あしお》の鵙平《もずへい》茶屋にも鉄砲が掛けてあった、甲斐の石和《いさわ》の山の中で荘官|木工作《むくさく》が泡雪奈四郎《あわゆきなしろう》に鉄砲で射殺《うちころ》された。大詰の大戦争の駢馬三連車も人を驚かせるが、この踊り屋台《やたい》然たる戦車の上に六人の銃手が銃口を揃えてるのは凄《すさ》まじい。天下の管領の軍隊だから葡萄牙《ポルトガル》人よりも先に何百挺何千挺の鉄砲を輸入しても妨げないが、野武士や追剥までが鉄砲をポンポン撃つのは余り無鉄砲過ぎる。網苧の山里の立場《たてば》茶屋に猪嚇《ししおど》しの鉄砲が用意してあるほどなら、道節も宝刀を捻《ひね》くり廻して居合抜《いあいぬき》の口上のような駄弁を弄《ろう》して定正に近づこうとするよりもズドンと一発ブッ放した方が余程早手廻しだったろう。
 こういうと偏痴気論になる。小説だもの、鱶七《ふかしち》が弁慶の長上下《ながかみしも》で貧乏徳利をブラ下げて入鹿御殿に管《くだ》を巻こうと、芝居や小説にいちいち歴史を持出すのは余程な大白痴《おおばか》で、『八犬伝』の鉄砲もまた問題にならない。が、ウソらしいウソは問題にならないが、ホントウらしく聞えるウソは小説だと思っても欺されるから問題になる。弁慶の七つ道具の中にピストルがあったといっても誰も問題にしないが、長禄に安房の田舎武士が鉄砲を持っていたというと、ちょっと首を傾《かし》げさせる。いわんや説話者が博覧の穿鑿好きたる馬琴であるから、眉に唾をつけながらも考えさせられる。
 鉄砲は暫らくお預けとして、長禄というと太田道灌《おおたどうかん》が江戸城を築いた年である。『八犬伝』には道灌は影になってるが、道灌の子の助友は度々顔を出してる。江戸は『八犬伝』の中心舞台で、信乃《しの》が生れ額蔵《がくぞう》が育った大塚《おおつか》を外にしても神田《かんだ》とか湯嶋《ゆしま》とか本郷《ほんごう》とかいう地名は出るが「江戸」という地名は見えない。江戸城を匂わせるような城も見えない。両管領との大戦争に里見方は石浜、五十子《いさらこ》、忍岡《しのぶがおか》、大塚の四城を落しているが、その地理的位置が江戸城を懐《おも》わせるようなのはない。もっとも江戸城なぞは有っても無くても『八犬伝』の本筋には少しも関係しないが、考証好きの馬琴が代る代るに犬士をこの地方に遍歴《へめぐ》らさして置いて江戸城を見落さしたのを不思議に思う。
 前にもいったが、『八犬伝』の中心舞台は安房よりも江戸であって、事件が多くは江戸あるいは江戸人に親しみのある近国で発展したのが少なくも中央|都人士《とじんし》の興味を湧かさした原因の一つである。殊に一番人気のある信乃を主役として五犬士の活躍するは、大塚を本舞台として巣鴨《すがも》・池袋《いけぶくろ》・滝《たき》の川《がわ》・王子《おうじ》・本郷に跨《また》がる半円帯で、我々郊外生活者の遊歩区域が即ち『八犬伝』の名所旧蹟である。一体大塚城というのはドコにあったろう? そんな問題を出すのがそもそも野暮のドン詰りであるが、もともと城主の大石というのが定正の裨将《ひしょう》であるから、城と称するが実は陣屋《じんや》であろう。いわゆる「飯盛《めしもり》も陣屋ぐらいは傾ける」程度の飯盛相当の城であろう。ところで、城にしろ陣屋にしろどの辺であるか見当が附かぬが、信乃が幼時を過ごした大塚は、信乃の家の飼犬が噛み殺した伯母の亀篠《かめざさ》の秘蔵猫に因《ちな》んで橋名を附けられたと作者が考証する簸川《ひかわ》の猫股橋《ねこまたばし》というのが近所であるから、それから推して氷川|田圃《たんぼ》に近い、今の地理的考証から推して氷川田圃に近き今の高等師範の近辺であろう。荘助の額蔵が処刑されようとした庚申塚《こうしんづか》の刑場も近く、信乃の母が滝の川の岩屋へ日参したという事蹟から考えても高等師範近所と判断するが当っているだろう。
 ところで信乃がいよいよ明日は滸我《こが》へ旅立つという前晩、川狩へ行って蟇六《ひきろく》の詭計に陥《は》められて危《あぶ》なく川底へ沈められようとし、左母二郎《さもじろう》に宝刀を摩替《すりか》えられようとした神宮川《かにはがわ》というは古名であるか、それとも別に依拠《よりどころ》のある仮作名であるか、一体ドコを指すのであろう。信乃が滝の川の弁天へ参詣した帰路に偶然|邂逅《であ》ったように趣向したというのだから、滝の川近くでなければならないので、多分荒川の小台《おだい》の渡し近辺であろう。仮にそう定めて置いて、大塚から点燈《ひともし》頃にテクテク荒川くんだりまで出掛け、水の中で命のやりとりの大芝居をして帰ったのが亥《い》の刻過ぎたというから十時である。往返《ゆきかえり》をマラソンでヘビーを掛け、水中の実演を余程高速度で埒《らち》を明けなければとても十時には帰って来られない。が、荒川より近くには神宮川のような大きな川はない。
 道節が火定《かじょう》に入った円塚山《まるづかやま》というは名称の類似から本郷の丸山だろうともいうし、大学の構内の御殿の辺だろうという臆説もある。ドッチにしてももとが小説だから勝手な臆測が許されるが、左母二郎が浪路《なみじ》を誘拐して駕籠《かご》を飛ばして来たは大塚から真直ぐに小石川の通りを富坂《とみさか》へ出て菊坂あたりから板橋街道へ出たものらしい。円塚山はこの街道筋にあるので、今の燕楽軒から白十字・パラダイス・鉢の木が軒を並べるあたりが道節の寂寞道人肩柳《じゃくまくどうじんけんりゅう》や浜路の史跡である。小説の史跡を論ずるのは極楽の名所|図会《ずえ》や竜宮の案内記を書くようなものだが、現にお里の釣瓶鮨《つるべずし》のあとも今なお連綿として残り、樋口の十郎兼光の逆櫓《さかろ》の松も栄え、壺阪では先年|沢市《さわいち》の何百年|遠忌《おんき》だかを営んだ。『八犬伝』の史蹟も石に勒して建てられる時があるかも知れない。(市川附近や安房の富山には『八犬伝』の遺跡と伝えられる処が既にあるという咄だ。)
 が、そういう空想史蹟は暫く措いて、単なる地理的興味から見て頗る味わうべきものがしばしばある。小文吾が荒猪を踏み殺したは鳥越《とりごえ》であるが、鳥越は私が物心覚えてからかなり人家の密集した町である。徳川以前、足利の末辺にもせよ、近くに山もないに野猪が飛び出すか知らん。(もっとも、『十方庵遊歴雑記』に向嶋の弘福寺が境内寂寞としてただ野猿の声を聞くという記事があるが、奥山の猿芝居の猿の声ではなさそうだ。)また、この鳥越から海が見えるという記事がある。湯嶋の高台からは海が見えるから、人家まばらに草茫々と目に遮《さえぎ》るものもないその頃の鳥越からは海が見えたかも知れぬが、ちょっと異《い》な感じがする。
 芳流閣の屋根から信乃と現八とが組打して小舟の中に転がり落ち、はずみに舫綱《もやいづな》が切れて行徳《ぎょうとく》へ流れるというについて、滸我《こが》即ち古賀からは行徳へ流れて来ないという説がある。利根の一本筋だから引汐なら行徳へ流れないとも限らないが、古賀から行徳まではかなりな距離があって水路が彎曲している。その上に中途の関宿《せきやど》には関所が設けられて船舶の出入に厳重であったから、大抵な流れ舟はここで抑留される。さもなくとも、川は曲りくねって蘆荻《ろてき》が密生しているから小さな舟は途中で引っ掛ってしまう。到底無事に行徳まで流れて来そうもない。
 夷※[#「さんずい+(旡+旡)/鬲」、第3水準1−87−31]《いしみ》の館
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