ドロモドロながらも自筆であるが、その次の丁からは馬琴の※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》の宗伯《そうはく》未亡人おミチの筆で続けられてる。この最終の自筆はシドロモドロで読《よ》み辛《づら》いが、手捜《てさぐ》りにしては形も整って七行に書かれている。(視力の完全な時は十一行、このアトを続けたおミチのは十行。)中には『回外剰筆』にある通り、四行五行に、大きく、曲りくねって字間も一定せず、偏《へん》と旁《つくり》が重なり合ったり離れ過ぎたりして一見盲人の書いたのが点頭《うなず》かれるのもある。中にはまた、手捜りで指の上に書いたと見え、指の痕が白く抜けてるのもある。古今詩人文人の藁本の今に残存するものは数多くあるが、これほど文人の悲痛なる芸術的の悩みを味わわせるものはない。
が、悲惨は作者が自ら筆を持つ事が出来なくなったというだけで、意気も気根も文章も少しも衰えていない。右眼が明《めい》を失ったのは九輯に差掛った頃からであるが、馬琴は著書の楮余《ちょよ》に私事を洩らす事が少なくないに拘わらず、一眼だけを不自由した初期は愚か両眼共に視力を失ってしまってからも眼の事は一言もいわなかった。作者の私生活と交渉のなかった単なる読者は最後の『回外剰筆』を読むまでは恐らく馬琴が盲したのを全く知らなかったろう。一体が何事にも執念《しゅうね》く、些細な日常瑣事にすら余りクドクド言い過ぎる難があるが、不思議に失明については思切《おもいきり》が宜《よ》かった。『回外剰筆』の視力を失った過程を述ぶるにあたっても、多少の感慨を洩らしつつも女々しい繰言を繰り返さないで、かえって意気のますます軒昂たる本来《もちまえ》の剛愎が仄《ほの》見えておる。
全く自ら筆を操る事が出来なくなってからの口授作《くじゅさく》にも少しも意気消沈した痕が見えないで相変らずの博引旁証《はくいんぼうしょう》をして気焔を揚げておる。馬琴の衒学癖《げんがくへき》は病《やまい》膏肓《こうこう》に入《い》ったもので、無知なる田夫野人《でんぶやじん》の口からさえ故事来歴を講釈せしむる事が珍らしくないが、自ら群書を渉猟する事が出来なくなってからも相変らず和漢の故事を列《なら》べ立てるのは得意の羅大経《らたいけい》や『瑯※[#「王+邪」、第3水準1−88−2]代酔篇《ろうやたいすいへん》』が口を衝《つ》いて出《い》づるので、その博覧強記が決して俄仕込《にわかじこみ》にあらざるを証して余りがある。
かつ『八犬伝』の脚色は頗る複雑して事件の経緯は入り組んでいる。加うるに人物がそれぞれの歴史や因縁で結ばれてるので、興味に駆られてウカウカ読んでる時はほぼ輪廓を掴《つか》んでるように思うが、細かに脈絡を尋ねる時は筋道が交錯していて彼我の関係を容易に弁識し難い個処がある。総じて複雑した脚色は当の作者自身といえども往々混錯して往々迷路に彷徨するは、あたかも自分の作ったラビリンスに入って出口を忘れるようなものだ。一度死んだ人間を無理に蘇生《いきかえ》らしたり、マダ生きてるはずの人間がイツの間にかドコかへ消えてしまったり、一つ人間の性格が何遍も変るのはありがちで、そうしなければ纏まりが附かなくなるからだ。正直に平たく白状さしたなら自分の作った脚色を餅に搗《つ》いた経験の無い作者は殆んどなかろう。長篇小説の多くが尻切蜻蜒《しりきれとんぼ》である原因の過半はこれである。二十八年の長きにわたって当初の立案通りの過程を追って脚色の上に少しも矛盾撞着を生ぜしめなかったのは稀に見る例で、作者の頭脳の明澄透徹を証拠立てる。殊に視力を失って単なる記憶に頼るほかなくなってからでも毫も混錯しないで、一々個々の筋道を分けておのおの結末を着けたのは、例えば名将の隊伍を整えて軍を収むるが如くである。第九輯巻四十九以下は全篇の結末を着けるためであるから勢いダレる気味があって往々閑却されるが、例えば信乃が故主成氏《こしゅうしげうじ》の俘《とら》われを釈《と》かれて国へ帰るを送っていよいよ明日は別れるという前夕、故主に謁《えつ》して折からのそぼ降る雨の徒々《つれづれ》を慰めつつ改めて宝剣を献じて亡父の志を果す一条の如き、大塚匠作《おおつかしょうさく》父子の孤忠および芳流閣の終曲として余情|嫋々《じょうじょう》たる限りなき詩趣がある。また例えば金光寺門前の狐竜の化石(第九輯巻五十一)延命院の牡丹の弁(同五十二)の如き、馬琴の得意の涅覓論であるが、馬琴としては因縁因果の解決を与えたのである。馬琴の人生観や宇宙観の批評は別問題として、『八犬伝』は馬琴の哲学諸相を綜合具象した馬琴|宗《しゅう》の根本経典である。
三 『八犬伝』総括評
だが、有体《ありてい》に平たくいうと、初めから二十八年と予定して稿を起したのではない。読者の限りない人気に引き摺られて次第に延長したので、アレほど厖大な案を立てたのでないのはその巻数の分け方を見ても明らかである。本来|読本《よみほん》は各輯五冊で追って行くを通則とする。『八犬伝』も五輯までは通則通りであったが、六輯は一冊増して六冊、七輯は更に一冊加えて七冊、八輯は一度に三冊を加えて十冊とした。九輯となると上中下の三|帙《ちつ》を予定し、上帙六冊、中帙七冊、下帙は更に二分して上下両帙の十冊とした。それでもマダ完結とならないので以下は順次に巻数を追うことにした。もし初めからアレだけ巻数を重ねる予定があったなら、一輯五冊と正確に定めて十輯十一輯と輯の順番を追って行くはずで、九輯の上だの下だの、更に下の上だの下の下だのと小面倒な細工をしないでも宜《よ》かったろうと思う。全部を二分して最初の半分が一輯より八輯まで、アトの半分が総九輯というようなコンナ馬鹿々々しい巻数附けは『八犬伝』以外には無い。これというのは畢竟《ひっきょう》、モウ五冊、モウ三冊と、次第にアトを引き摺られてよんどころなしに巻数を増したと見るほかはない。
例えば親兵衛が京都へ使いする一条の如き、全く省いても少しも差支ない贅疣《ぜいゆう》である。結城《ゆうき》以後影を隠した徳用《とくよう》・堅削《けんさく》を再出して僅かに連絡を保たしめるほかには少しも本文に連鎖の無い独立した武勇談である。第九輯巻二十九の巻初に馬琴が特にこの京都の物語の決して無用にあらざるを強弁するは当時既に無用論があったものと見える。一体、親兵衛は少年というよりは幼年というが可なるほどの最年少者であって、豪傑として描出するには年齢上無理がある。勢い霊玉の奇特《きどく》や伏姫神《ふせひめがみ》の神助がやたらと出るので、親兵衛武勇談はややもすれば伏姫|霊験記《れいげんき》になる。他の犬士の物語と比べて人間味が著しく稀薄であるが、殊に京都の物語は巽風《そんふう》・於菟子《おとこ》の一節を除いては極めて空虚な少年武勇伝である。
本来『八犬伝』は百七十一回の八犬|具足《ぐそく》を以て終結と見るが当然である。馬琴が聖嘆《せいたん》の七十回本『水滸伝』を難じて、『水滸』の豪傑がもし方臘《ほうろう》を伐って宋朝に功を立てる後談がなかったら、『水滸伝』はただの山賊物語となってしまうと論じた筆法をそのまま適用すると、『八犬伝』も八犬具足で終って両|管領《かんれい》との大戦争に及ばなかったらやはりただの浮浪物語であって馬琴の小説観からは恐らく有終の美を成さざる憾《うら》みがあろう。そういう道学的小説観は今日ではもはや問題にならないが、為永春水|輩《はい》でさえが貞操や家庭の団欒《だんらん》の教師を保護色とした時代に、馬琴ともあるものがただの浮浪生活を描いたのでは少なくも愛読者たる士君子に対して申訳が立たないから、勲功記を加えて以て完璧たらしめたのであろう。が、『八犬伝』の興趣は穂北《ほきた》の四犬士の邂逅《かいこう》、船虫《ふなむし》の牛裂《うしざき》、五十子《いさらこ》の焼打で最頂に達しているので、八犬具足で終わってるのは馬琴といえどもこれを知らざるはずはない。畢竟するに馬琴が頻りに『水滸』の聖嘆評を難詰|屡々《しばしば》するは『水滸』を借りて自ら弁明するのではあるまいか。
だが、この両管領との合戦記は、馬琴が失明後の口授作にもせよ、『水滸伝』や『三国志』や『戦国策』を襲踏した痕が余りに歴々として『八犬伝』中最も拙陋《せつろう》を極めている。一体馬琴は史筆|椽大《てんだい》を以て称されているが、やはり大まかな荒っぽい軍記物よりは情緒細やかな人情物に長じておる。線の太い歴史物よりは『南柯夢《なんかのゆめ》』や『旬殿実々記《しゅんでんじつじつき》』のような心中物に細かい繊巧な技術を示しておる。『八犬伝』でも浜路《はまじ》や雛衣《ひなきぬ》の口説《くどき》が称讃されてるのは強《あなが》ち文章のためばかりではない。が、戦記となるとまるで成っていない。ヘタな修羅場読《しゅらばよみ》と同様ただ道具立を列《なら》べるのみである。葛西金町《かさいかなまち》を中心としての野戦の如き、彼我の五、六の大将が頻りに一騎打の勇戦をしているが、上杉・長尾・千葉・滸我らを合すればかなりな兵数になる軍勢は一体何をしていたのか、喊《とき》の声さえ挙げていないようだ。その頃はモウかなり戦術が開けて来たのだが、大将株が各自《てんで》に自由行動を取っていて軍隊なぞは有るのか無いのか解らない。これに対抗する里見勢もまた相当の数だろうが、ドダイ安房《あわ》から墨田河原《すみだがわら》近くの戦線までかなりな道程をいつドウいう風に引牽《いんけん》して来たのやらそれからして一行も書いてない。水軍の策戦は『三国志』の赤壁をソックリそのままに踏襲したので、里見の天海《てんかい》たる丶大《ちゆだい》や防禦使の大角《だいかく》まで引っ張り出して幕下でも勤まる端役を振り当てた下《した》ごしらえは大掛りだが、肝腎の合戦は音音《おとね》が仁田山晋六《にたやましんろく》の船を燔《や》いたのが一番壮烈で、数千の兵船を焼いたというが児供《こども》の水鉄砲くらいの感じしか与えない。扇谷家第一の猛者|小幡東良《おばたはるよし》が能登守教経《のとのかみのりつね》然たる働きをするほかは、里見勢も上杉勢も根ッから動いていない。定正がアッチへ逃げたりコッチへ逃げたりするのも曹操《そうそう》が周瑜《しゅうゆ》に追われては孔明《こうめい》の智なきを笑うたびに伏兵が起る如き巧妙な作才が無い。軍記物語の作者としての馬琴は到底『三国志』の著者の沓《くつ》の紐《ひも》を解くの力もない。とはいうものの『八犬伝』の舞台をして規模雄大の感あらしめるのはこの両管領との合戦記であるから、最後の幕を飾る場面としてまんざら無用でないかも知れない。
が、『八犬伝』は、前にもいう通り第八輯で最高頂に達し、第九輯巻二十一の百三十一回の八犬具足で終わっている。それより以下は八犬後談で、切り離すべきである。(私の梗概がその以下に及ばないのはこの理由からである。)『八犬伝』の本道は大塚から市川《いちかわ》・行徳《ぎょうとこ》[#ルビの「ぎょうとこ」はママ]・荒芽山《あらめやま》と迂廻して穂北《ほきた》へ達する一線である。その中心点が大塚と行徳と荒芽山である。野州路《やしゅうじ》や越後路《えちごじ》はその裏道で甲斐《かい》の石和《いさわ》や武蔵《むさし》の石浜《いしはま》は横路である。富山や京都は全く別系統であって、富山が八犬の発祥地であるほかには本筋には何の連鎖もない。地理的にいえば、大塚と行徳と荒芽との三地点から縄を引っ張った三角帯が『八犬伝』の本舞台であって、この本舞台に登場しない犬江(親兵衛は行徳に顔を出すがマダ子役であって一人前になっていない)・犬村・犬阪の三犬士は役割からはむしろスケ役である。なかんずく、その中心となるのは信乃と道節とで、『八犬伝』中最も興味の深い主要の役目を勤めるのは常にこの二人である。
一体八犬士は余り完全過ぎる。『水滸伝』中には、鶏を盗むを得意とする時遷《じせん》のような雑輩を除いても黒旋風《こくせんぷう》のような怒って乱暴するほかには取柄《とりえ
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