かつ》墨の続《つ》かぬ処ありて読み難しと云へば其《そ》を宅眷《やから》に補はせなどしぬるほどに十一月《しもつき》に至りては宛《さな》がら雲霧の中に在る如く、又|朧月夜《おぼろづきよ》に立つに似て一字も書く事|得《え》ならずなりぬ」とて、ただ筆硯《ひっけん》に不自由するばかりでなく、書画を見ても見えず、僅かに昼夜を弁ずるのみなれば詮方《せんかた》なくて机を退け筆を投げ捨てて嘆息の余りに「ながらふるかひこそなけれ見えずなりし書巻川《ふみまきがは》に猶わたる世は」と詠じたという一節がある。何という凄惻《せいそく》の悲史であろう。同じ操觚《そうこ》に携わるものは涙なしには読む事が出来ない。ちょうどこの百七十七回の中途で文字がシドロモドロとなって何としても自ら書く事が出来なくなったという原稿は、現に早稲田大学の図書館に遺存してこの文豪の悲痛な消息を物語っておる。扇谷定正《おうぎがやつさだまさ》が水軍全滅し僅かに身を以て遁《のが》れてもなお陸上で追い詰められ、漸く助友《すけとも》に助けられて河鯉《かわこい》へ落ち行く条《くだり》にて、「其馬をしも船に乗せて隊兵《てせい》――」という丁の終りまではシ
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