。
馬琴はこれに反して画家の我儘を決して許さなかった。馬琴は初め北斎と結託して馬琴の挿画は北斎が描くを例とした。ところが『弓張月』だったか『水滸画伝』だったかの時、無論酒の上の元気か何かであろう、馬琴の本が売れるのは俺の挿画が巧いからだと北斎が傲語した。さア、馬琴が承知しない、俺の本の挿画を描かせるから人からヤレコレいわれるようになったのを忘れたかと、それぎり二人は背中合せとなった。ドッチも鼻梁《はなっぱり》の強い負け嫌いの天狗同志だから衝突するのは無理はない。京伝だったら北斎に花を持たして奇麗に負けてやったろう。
が、馬琴には奇麗サッパリと譲ってやる襟度《きんど》が欠けていた。奉公人にさえ勘弁出来ないで、些細な不行届《ふゆきとどき》にすら請人を呼び付けてキュウキュウ談じつけなければ腹の虫が慰《い》なかったのだから、肝癖《かんぺき》の殿様の御機嫌を取るツモリでいるものでなければ誰とでも衝突した。一つは馬琴の人物が市井《しせい》の町家の型に適《はま》らず、戯作者仲間の空気とも、容れなかったからであろう。馬琴が蒲生君平《がもうくんぺい》や渡辺|崋山《かざん》と交際したのはそれほど深い親
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