密につけた日記に来客と共に愉快そうに談笑した記事が殆んど見えない。家族と一緒に遊びに出掛けたはおろか、在宿して団欒《だんらん》の歓楽に興じた記事もまた見えない。馬琴は二六時中、操觚《そうこ》に没頭するか読書に耽るかして殆んど机に向かったぎりで家人と世間咄一つせず、叱言をいう時のほかは余り口を利かなかったらしい。
 家人に対してさえこれだからましてや他人に対してお上手をいうような事はなかった。『蜘蛛の糸巻』に、恩人の京伝の葬式には僅かばかりの香料を包んで代理に持たせて自分は顔を出さなかったくせに、自分が書画会をする時には自筆の扇子《せんす》を持って叩頭《おじぎ》に来たと、馬琴の義理知らずと罵っている。が、葬式の一条はともかく、自分の得《とく》になっても叩頭をする事の大嫌いな馬琴が叩頭に来たというは滅多にない珍らしい事だ。ツマリ世渡り下手《へた》で少しもお上手を知らなかったので、あながち義理知らずばかりでもなかった。
 ひと口にいうと馬琴は無調法者だった。口前《くちさき》の上手な事をいうのは出来なかったよりも持前の剛愎が許さなかった。人の感情を毀《こわ》すナゾは余り問題にしなかったから、人
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