称し、「読本といふもの、天和《てんな》の西鶴《さいかく》に起り、自笑《じしょう》・其磧《きせき》、宝永正徳《ほうえいしょうとく》に鳴りしが馬琴には三舎すべし」と、京伝側を代表する京山が、これもまた案外公平な説を立ててるのは、京伝・馬琴が両々相対して下らざる互角の雄と見做《みな》したのが当時の公論であったのだろう。二人は遠く離れて睨み合っていても天下の英雄は使君と操とのみと互いに相許していたに違いない。が、京伝は文化十三年馬琴に先んじて死し、馬琴はそれ以後『八犬伝』の巻を重ねていよいよ文名を高くし、京伝に及ばずと自ら認めた臭草紙でも『傾城《けいせい》水滸伝』や『金毘羅船《こんぴらぶね》』のような名篇を続出して、盛名もはや京伝の論ではなくなっている。馬琴としては区々世評の如きは褒貶《ほうへん》共に超越して顧みないでも、たとえば北辰《ほくしん》その所にいて衆星これを繞《めぐ》るが如くであるべきである。それにもかかわらず、とかくに自己を挙げて京伝を貶《へん》する如き口吻《こうふん》を洩らすは京山のいう如く全くこの人にしてこの病ありで、この一癖が馬琴の鼎《かなえ》の軽重を問わしめる。
馬琴の人
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