にしてももとが小説だから勝手な臆測が許されるが、左母二郎が浪路《なみじ》を誘拐して駕籠《かご》を飛ばして来たは大塚から真直ぐに小石川の通りを富坂《とみさか》へ出て菊坂あたりから板橋街道へ出たものらしい。円塚山はこの街道筋にあるので、今の燕楽軒から白十字・パラダイス・鉢の木が軒を並べるあたりが道節の寂寞道人肩柳《じゃくまくどうじんけんりゅう》や浜路の史跡である。小説の史跡を論ずるのは極楽の名所|図会《ずえ》や竜宮の案内記を書くようなものだが、現にお里の釣瓶鮨《つるべずし》のあとも今なお連綿として残り、樋口の十郎兼光の逆櫓《さかろ》の松も栄え、壺阪では先年|沢市《さわいち》の何百年|遠忌《おんき》だかを営んだ。『八犬伝』の史蹟も石に勒して建てられる時があるかも知れない。(市川附近や安房の富山には『八犬伝』の遺跡と伝えられる処が既にあるという咄だ。)
が、そういう空想史蹟は暫く措いて、単なる地理的興味から見て頗る味わうべきものがしばしばある。小文吾が荒猪を踏み殺したは鳥越《とりごえ》であるが、鳥越は私が物心覚えてからかなり人家の密集した町である。徳川以前、足利の末辺にもせよ、近くに山もない
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