く一山になっていた。
『何時ごろ?』『四時半ごろ。』『火許は何処?』『富田のアイロン場。』――と、誰が誰に話すのか解らぬが其処此処で聞えた。中には百遍も繰返したものもあったろう。
話を綜合すると、
今暁四時半、隣家の富田洋服店の三階の火熨斗場《ひのしば》から発火して、一間と離れない丸善の二階へ直ぐ燃付いて、瞬く中に仮営業所の全部に火が廻って、到頭隣家の二三軒までも焼落ちて了った。此晩の丸善の宿直が揃いも揃って近視鏡を用ゆる三名、寄宿の小僮が十名。唯った之ぎりの人数だから、近所の取引先きや出入の職人の手伝いもあったが、火さきは早いし、手は廻らず、一番重要な書類を漸とこさ持出したゞけで、商品は殆んど全部が焼けて了ったという。
雑然喧然騒然紛然たる中に立って誰からとなく此咄を聞きつゝ何とも言い知れない感慨に堪えなかった。眇たる丸善の店は焼けようと焼けまいと社会に何の影響も与えまいが、此中に充積する商品は皆日本の文明に寄与する糧であった。戦争に勝っても日本の文明は猶だ欧米と比べものにならない今日、ラデュームやエレクトロンやプラグマチズムや将たイプセンやニーチェやトルストイの思想が学者間の
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