た。※[#「※」は「けものへん+胃」、第4水準2−80−43、151−1]鼠《はりねずみ》のような頭の□□は益々ガチ/\していたが、ガチ/\は同じ平生《いつも》のガチ/\であっても、其のガチ/\の底に陰気の音が籠っていた。総支配人は平日に無い靴を穿いていた。『△△さんの靴は初めて見た、』と暢気な観察をする小僮《こども》もあった。黒い髯で通る○○は露助然たる駱駝帽を被って薄荷パイプを横啣《よこぐわ》えの外套の衣兜《かくし》に両手を突込みの不得要領な顔をしていた。白い髯で通る社長老人は眼鏡越しに眼をパチ/\して、『私《わし》の家《とこ》へは店から火事だと電話が掛った。処が中途でプツリと切れたので、直ぐ二十八番を呼出そうとすると、丸善は今焼けてるという交換局の返事だから、そりゃ大変というので……』と、恰も一里も先きに火事があったように悠々閑々と咄していた。
 只《と》見《み》ると、持出された書類函が重なって、中から帳簿が喰出《はみだ》していた。四方が真黒に焦げたカード箱が投出されてる傍には、赤く焼け爛れた金庫が防火の功名《てがら》を誇り顔していた。四隅が焦げたカードやルーズリーフや書類が堆かく一山になっていた。
『何時ごろ?』『四時半ごろ。』『火許は何処?』『富田のアイロン場。』――と、誰が誰に話すのか解らぬが其処此処で聞えた。中には百遍も繰返したものもあったろう。
 話を綜合すると、
 今暁四時半、隣家の富田洋服店の三階の火熨斗場《ひのしば》から発火して、一間と離れない丸善の二階へ直ぐ燃付いて、瞬く中に仮営業所の全部に火が廻って、到頭隣家の二三軒までも焼落ちて了った。此晩の丸善の宿直が揃いも揃って近視鏡を用ゆる三名、寄宿の小僮が十名。唯った之ぎりの人数だから、近所の取引先きや出入の職人の手伝いもあったが、火さきは早いし、手は廻らず、一番重要な書類を漸とこさ持出したゞけで、商品は殆んど全部が焼けて了ったという。
 雑然喧然騒然紛然たる中に立って誰からとなく此咄を聞きつゝ何とも言い知れない感慨に堪えなかった。眇たる丸善の店は焼けようと焼けまいと社会に何の影響も与えまいが、此中に充積する商品は皆日本の文明に寄与する糧であった。戦争に勝っても日本の文明は猶だ欧米と比べものにならない今日、ラデュームやエレクトロンやプラグマチズムや将たイプセンやニーチェやトルストイの思想が学者間の
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