談柄にのみ限られてる今日、欧米首都の外は地理的名称さえ猶だ碌々知られていない今日、自然主義を誨淫文学と見做し社会主義を売国論と敵視する今日、ロイテル電報よりも三面雑報の重大視される今日、滔々たる各方面の名士さえ学校時代の教科書たる論語とセルフヘルプの外には哲学も倫理もなきように思う今日、此の如く人文程度の低い日本では西欧知識の断片零楮も猶お頗る愛惜しなければならない。眇たる丸善の損害は何程でもなかろうが、其肆頭の書籍は世間の虚栄を増長せしむる錦繍|綾羅《りょうら》と違って、皆有用なる知識の糧、霊魂の糧である。金に換えたら幾何のものでなくても、其存在の効果は無際涯である無尽蔵である。此の焼けて灰となった書籍の一冊を読んで大発明をし、大文章を書き、大建築を作る人があったかも知れない。書籍は少くも五百部千部を印刷するゆえ、一冊や二冊焼けても夫程惜しくないと云う人があるかも知れぬが、日本のような外国書籍の供給が不十分な国では、一冊や二冊でも頗る大切である。且其の焼けた一冊が他日の大発明家、大文学家、乃至大建築家を作るべき機縁を持っていたかも解らない。何千部何万部刷ろうとも失われた一冊は日本文化に取っては一冊の世界的知識の損失であると、感慨一時に湧いて来たが、周囲の人声や履《げた》の音に忽ち消されて了った。
 工事中の新築の階下へ行って見ると、材木や煉瓦やセメント樽を片寄せて炭火を焚いてる周囲に店員が集って、見舞物の握飯《むすび》や海苔巻を頬張ったり鯣《するめ》を焼いたりしていた。メリヤスの肌着《シャツ》と股引の上に外套を引掛けた焼出された宿直の一人が、富田の店員が三人屋根伝いに逃げて来て助けて呉れと云った顛末を語っていた。其傍に同じ焼出されの宿直が素綿入の寝巻に厚い駱駝の膝掛けを纏付けて、カン/\した炭火に当りながら茶碗酒を引掛けていた。
 煤けた顔をして縄襷を掛けてるのや、チョッキ一つで泥だらけになってるのや、意気地の無いダラシの無い扮装《なり》をして足だけ泥にしているのや、テンヤワンヤの姿をした働き手が裏口から焼け跡へと出たり入ったりしていた。小僮が各自に焼残りの商品を持てるだけ抱えては後から後からと出て来た。
 焼残りの書籍や文房具や洋物雑貨が塵溜のようにゴッタに積重ねられて隅々を塞げていた。其傍に無残に厚硝子を破《こわ》された飾棚が片足折れて横たに倒れそうに傾いてい
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