とがいえたんです、「いいからどんなことでもかまわずお話し」と仰しゃるもんだから、お目に掛ったその日は木登りをして一番大きな松ぼっくりを落したというような事から、いつか船に乗って海へ行って見たいなんていう事まで、いっちまうと、面白がって聞《きい》ていて下すったんです。
 時々は夢に見たって色々不思議な話しをして下すった事がありました。そのお話しというのは、ほんとうに有そうな事ではないんでしたが、奥さまの柔和《おとなし》くッて、時として大層|哀《あわれ》っぽいお声を聞くばかりでも、嬉しいのでした。一度なんぞは、ある気狂い女が夢中に成《なっ》て自分の子の生血を取てお金にし、それから鬼に誘惑《だま》されて自分の心を黄金《こがね》に売払ったという、恐ろしいお話しを聞いて、僕はおっかなくなり、青くなって震《ふる》えたのを見て「やっぱりそれも夢だったよ」と仰って、淋《さび》しそうにニッコリなすった事がありましたッけ。
 マアどれほど親切で、美しくッて、好い方だったか、僕は話せない位ですよ。話せればあなただってどんなに好《すき》におなんなさるか! 非常に僕を可愛がって下すったことを思い出してさえ、なんだか涙が眼に一杯になります。モウ先のことだけれど、きのうきょうのように思われますよ。ホラ晴た夜に空をジット眺《なが》めてると初めは少ししか見えなかった星が段だんいくらもいくらも見えて来ますネイ。丁度《ちょうど》そういうように、ぼんやりおぼえてるあの時分のことを考うれば考えるほど、色々新しいことを思出して、今そこに見えたり聞えたりするような心持がします。いつかフト子供心に浮んだことを、たわいなく「アノ坊なんぞも、若さまのように可愛らしくなりたい」といいましたら、奥様が妙に苦々しい笑いようを為《なす》って、急に改まって、きっ[#底本は「つ」]ぱりと「マアぼうは、そんなことを決していうのじゃありませんよ、坊はやっぱりそのままがわたしには幾《いく》ら好《いい》のか知れぬ、坊のその嬉しそうな目付、そのまじめな口元、ひとつも変えたい処はありませんよ。あの赤坊《あかんぼう》は奇麗《きれい》かは知りませんが、アノ従四位様のお家筋に坊の気高《けだか》い器量に及ぶ者は一人もありません。とにかく坊はソックリそのまま、わたしの心には、あの赤んぼうよりか、だれよりか可愛くッてならないのだよ」と仰有《おっしゃ》って、少しだまっていらっしゃると思ったら泣出して、「坊はね能《よ》くお聞《きき》よ。先におなくなり為《なす》って、遠方の墓に埋られていらっしゃる方に、似てるのだよ。ぼうもねその方の通りに、寛大《ゆったり》して、やさしくッて、剛勇《つよ》くなっておくれよ」。こう聞いて訳もなく悲しくなって、すすり泣《なき》しながら、また何気なく、「アアその墓に埋ってる人は殿さまのようにえらいお方?」というと、さも見下果《みさげはて》たという様子を口元にあらわして、僕の手を思い入れ握りしめ、「どうしてどうしてお死になされたとわたしが申《もうし》た愛《いと》しいお方の側へ、従四位様を並べたら、まるで下郎《げろう》を以《もっ》て往《いっ》たようだろうよ」と仰有ってまたちょっと口を結び、力のなさそうな溜息《ためいき》をなすって、僕のあたまを撫《なで》ながら、「坊もどうぞあの通りな立派な生涯を送って、命を終る時もあのようにいさぎよくなければなりません。真の名誉というものは、神を信じト、世の中に働くことにあるので、真《まこと》の安全も満足もこの外に得られるものでないと、つねづね仰《おっしゃ》ったことを、御遺言として、記憶しておいで」と、心を一杯|籠《こ》めて仰ったのを、訳はよく分らないでも、忘れる処か、今そこでうかがったようにおぼえているんです。
 いつかはまた、ちょっとした子供によくある熱に浮されて苦しみながら、ひるの中《うち》は頻《しき》りに寐反《ねがえ》りを打って、シクシク泣《ない》ていたのが、夜に入《い》ってから少しウツウツしたと思って、フト眼を覚《さま》すと、僕の枕元近く奥さまが来ていらっしゃって、折ふし霜月《しもつき》の雨のビショビショ降る夜を侵《おか》していらしったものだから、見事な頭髪《おぐし》からは冷たい雫《しずく》が滴《したた》っていて、気遣《きづか》わしげなお眼は、涙にうるんでいました。身動《みうごき》をなさる度ごとに、辺《あた》りを輝《て》らすような宝石がおむねの辺やおぐしの中で、ピカピカしているのは、なんでもどこかの宴会へお出《いで》になる処であったのでしょう。奥さまの涙が僕の顔へ当って、奥様の頬《ほほ》は僕の頬に圧《おっ》ついている中に僕は熱の勢か妙な感じがムラムラと心に浮んで、「アア/\おっかさんが生《いき》ていらっしゃれば好《い》いにねえ」というのを徳蔵おじが側から「
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