忘れ形見
若松賤子
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[表記について]
●ルビは「《ルビ》」の形式で処理した。
●ルビのない熟語(漢字)にルビのある熟語(漢字)が続く場合は、「|」の区切り線を入れた。
●二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)は「/\」で表した。
●[#]は、入力者注を示す。
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How kind, how fair she was, how good,
I cannot tell you. If I could,
You too would love her.
Proctor : "The Sailor Boy."
ミス、プロクトルの"The Sailor Boy"という詩を読みまして、一方ならず感じました。どうかその心持をと思って物語ぶりに書綴《かきつづ》って見ましたが、元より小説などいうべきものではありません。
あなた僕の履歴を話せって仰《おっしゃ》るの? 話しますとも、直《じっ》き話せっちまいますよ。だって十四にしかならないんですから。別段|大《たい》した悦《よろこび》も苦労もした事がないんですもの。ダガネ、モウ少し過ぎると僕は船乗《ふなのり》になって、初めて航海に行《ゆ》くんです。実に楽《たのし》みなんです。どんな珍しいものを見るかと思って……段々海へ乗出して往《ゆ》く中《うち》には、為朝《ためとも》なんかのように、海賊を平《たい》らげたり、虜《とりこ》になってるお姫さまを助けるような事があるかも知れませんからね。それから、ロビンソン、クルーソーみたように難船に逢《あ》って一人ッきり、人跡《じんせき》の絶えた島に泳ぎ着くなんかも随分面白かろうと考えるんです。
これまでは、ズット北の山の中に、徳蔵おじと一処にいたんですが、そのまえは、先《せん》の殿様ね、今では東京にお住いの従四位様《じゅよいさま》のお城趾《しろあと》を番していたんです。足利《あしかが》時代からあったお城は御維新のあとでお取崩《とりくず》しになって、今じゃ塀《へい》や築地《ついじ》の破れを蔦桂《つたかづら》が漸《ようや》く着物を着せてる位ですけれど、お城に続いてる古い森が大層広いのを幸いその後|鹿《しか》や兎《うさぎ》を沢山にお放しになって遊猟場《ゆうりょうば》に変えておしまいなさり、また最寄《もより》の小高見《こだかみ》へ別荘をお建てになって、毎年秋の木《こ》の葉《は》を鹿ががさつかせるという時分、大したお供揃《ともぞろい》で猟犬や馬を率《ひか》せてお下《くだ》りになったんです。いらっしゃれば大概二週間位は遊興をお尽しなさって、その間は、常に寂《ひっ》そりしてる市中が大そう賑《にぎやか》になるんです。お帰りのあとはいつも火の消《きえ》たようですが、この時の事は、村のものの一年中の話の種になって、あの時はドウであった、コウであったのと雑談《ぞうだん》が、始終尽ない位でした。
僕はまだ少《ちい》さかったけれど、あの時分の事はよく覚えていますよ。サアお出《いで》だというお先布令《さきぶれ》があると、昔堅気《むかしかたぎ》の百姓たちが一同に炬火《たいまつ》をふり輝《て》らして、我先《われさき》と二里も三里も出揃《でぞろ》って、お待受《まちうけ》をするのです。やがて二頭曳《にとうびき》の馬車の轟《とどろき》が聞えると思うと、その内に手綱《たづな》を扣《ひか》えさせて、緩々《ゆるゆる》お乗込になっている殿様と奥様、物慣《ものなれ》ない僕たちの眼にはよほど豪気《ごうぎ》に見えたんです。その殿様というのはエラソウで、なかなか傲然《ごうぜん》と構えたお方で、お目通りが出来るどころではなく、御門をお通りになる度《たび》ごとに徳蔵おじが「こわいから隠れていろ」といい/\しましたから、僕は急いで、木の蔭《かげ》やなんかへかくれるんです。ですがその奥さまというのが、僕のためにはナンともいえない好《い》い方で、その方の事を考えても、話にしても、何だか妙に嬉《うれ》しいような悲しいような心持がして来るんです。美人といえばそれまでですが、僕はあんな高尚な、天人《てんにん》のような美人は見た事がないんです。先《まず》下々《しもじも》の者が御挨拶《ごあいさつ》を申上ると、一々しとやかにお請《うけ》をなさる、その柔和でどこか悲しそうな眼付《めつき》は夏の夜の星とでもいいそうで、心持|俯向《うつむ》いていらっしゃるお顔の品《ひん》の好さ! しかし奥様がどことなく萎《しお》れていらしって恍惚《うっとり》なすった御様子は、トント嬉《うれし》かった昔を忍ぶとでもいいそうで、折ふしお膝《ひざ》の上へ乗せてお連《つれ》になる若殿さま、これがまた見事に可愛《かあい》い坊様なのを、ろくろくお愛しもなさらない塩梅《あんばい》、なぜだろうと子供心にも思いました。
近処《きんじょ》のものは
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