の中に入つてゐた。
『どうして正覺坊はお酒飮なの、お母さん』
『阿父さんに訊いてごらん』
『どうして正覺坊はお酒飮なの、阿父さん』
『さアテ、なア、……』
『どうして正覺坊を、折角とつたのに』
『さアテ、……』
漸く一段落ついた所で私は妻に言つた。
『いゝ香具師《やし》もつかなかつたと見えるな』
『さうでせうとも、……、早く逃がしてやればいゝのに、慾張たちが』
逃がす、といふ言葉がなぜだかふつ[#「ふつ」に傍点]と私に例の姿を想ひ出させた、何處か其處らの海の中をせつせといま泳いでゐるであらうその姿を。
鴉
松原の幅が約二百間、西の海に面したそのはづれからかなり急な傾斜で五六十間あまりもなだれて行つてゐるのが濱である。千本濱といひ千本松原といふと優しく聞えるが、なか/\大きな松原であり、荒い濱である。
この正月ころからめつきり身體に出て來た酒精中毒のために旅行はおろか、町までへの外出をもようしなくなつた私にとつてこの松原と濱とは實にありがたい散歩場所であるのである。それも少し遠くまで歩くと動悸が打つので、自分の家に近いほんの僅かの部分を毎日飽くことなく一二度づつ歩いてゐるのである。從つて歩く徑も――松原の中には漁師のつけた徑が無數にある――きまつてをれば、腰をおろして休む場所も自づときまつてゐる。
しげ/\と立ち竝んだ松原のはづれ、其處から眞白い小石原の傾斜になつてゐるところに休み場の一つがある。腰をおろすに恰好な形を持つた場所に芝草が茂り、腰をおろして海に向つた頭の上には老松が程よく枝をひろげて居る。漁師小屋とも遠く、普通の徑とも離れてゐるので、人に向つて挨拶を交す事さへもない。そして、濱の全部、駿河灣の全部を居ながらに眺めわたすことが出來る。
多く一人でぶら/\するのであるが、時には子供を連れて出かける。子供といつても上の三人は學校に行つてゐるので、大抵いつも末つ子の六歳になる男の子にきまつてゐる。そして休むべき場所には一緒に休む。子供も心得てゐて、自分から先に行つて休んでゐることもある。中で一番多く休むのは右に云つた濱の高み、松の木の蔭である。ぼんやりと海を見、海を越しての伊豆の山の此頃青み渡つたのを見るにはまつたく其處は申分のない位置にある。
このごろ其處で面白いことに氣がついた。我等父子が休んでゐると、何處から飛んで來るか二羽の鴉が飛
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