鴉と正覺坊
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)不格好《ぶかつかう》な

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)走り※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐる

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぽき/\と噛み折られた。
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   正覺坊

 いつもより少し時間は遲かつたが、晩酌前の散歩をして來ようと庭つゞきの濱の松原へ出かけて行つた。其處には松原を縱に貫いて通じてゐる靜かな小徑があり、朝夕私の散歩徑となつてゐる。一二町も歩いたところで、濱から上つてその小徑を切る小徑がある。其處で三人連の漁師の子供に出會つた。いづれも十歳ばかりの見知らぬ子供たちであるが、なかの一人が行きちがひさまに矢庭に私に向つて兩手をひろげて、
『龜があがつたよ、斯んなにでつけえ龜が……』
 と言つた。
 するとあとの二人も振返つて同じ樣に兩手を押しひろげながら、
『龜があがつたよ、でつけえ龜が……』
 村に知らせにでも行くか、息をはずませてゐる。
『さうか、それはよかつた、其處の濱だけで……』
 彼等のうなづいて飛んで行くのを見ながら私は濱徑へ折れた。
 濱はまだ明るかつた。そして網の曳きあげられた浪打際から十四五人の人が何やら大きなものを擔いでこの松原つゞきの濱の高みに登つて來るところであつた。
 なるほど大きな龜である。二本の棒で、四人の若者に擔がれたこの怪物はやがて漁師小屋の前におろされた。まさしく二抱への胴のまはりと、それに相應した背丈とを持つてゐた。淡色をした首は厚ぼつたく幾重かに皺ばんで、ずつと縮めた時は直徑一尺もあるかに見えた。
 あふ向けになつたまゝ置かれてゐるので彼は動く事は出來なかつた。そして時々その不恰好《ぶかつかう》な身體に合せては小さい四肢をかたみがはりに動かして自分の腹部の甲良を打つてゐた。打つごとにがちやりがちやり[#「がちやりがちやり」に傍点]と音がした。網で痛めたか、眼は兩方ともに血走り、蝋涙の樣なものが斷えず流れて、その末は白くねばりついてゐた。腹の甲良は龜甲形の斑を帶びながらいかにも滑らかで、そして赤みを帶びて黄いろく、美しかつた。
『玳瑁《たいまい》といふでねヱかナ』

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