しはさう思うたので笑ひながらその旨を告げた。が、番頭たちは強硬であつた。あなた達の帰られた後、店の大戸には錠をおろした。その錠がそのまゝになつてゐる所を見ればどうしてもこの家の中に居らるゝものとせねばならぬ……。
「実はいま井戸の中をも探したのですが……」
「どうしても解らないとしますと駐在所の方へ届けておかねばならぬのですが……」
吹き出し度いながらにわたしも眼が覚めてしまつた。
如何なる事を彼は試みつゝあるか、一向見当がつきかねた。見廻せば手荷物も洋服も其儘である。
其処へ階下からけたゝましい女の叫び声が聞えた。
二人の若者はすは[#「すは」に白丸傍点]とばかり飛んで行つた。わたしも今は帯を締めねばならなかつた。そして急いで階下へおりて行つた。
宿の内儀を初め四五人の人が其処の廊下に並んで突つ立つてゐる。宵の口の小学校教師のむつかしい顔も見えた。自《おのづ》からときめく胸を抑へてわたしは其処へ行つた。と、またこれはどうしたことぞ、其処は大きなランプ部屋であつた。さまざまなランプの吊り下げられた下に、これはまたどうした事ぞ、わが親友は泰然として坐り込んでゐたのである。
「どうもこのランプ部屋が先刻からがたがたといふ様だものですから、いま来て戸をあけて見ましたらこれなんです、ほんとに妾はびつくりして……」
内儀はたゞ息を切らしてゐる。怒るにも笑ふにもまだ距離があつたのだ。
わたしとしても早速には笑へなかつた。先づ居並ぶ其処の人たちに陳謝し、サテ徐ろにこの石油くさき男を引つ立てねばならなかつた。
十月三十一日。
早々に小淵沢の宿を立つ。空は重い曇であつた。
宿屋を出外れて路が広い野原にかゝるとわたしの笑ひは爆発した。腹の底から、しんからこみあげて来た。
「どうして彼処に這入る気になつた」
「解らぬ」
「這入つて、眠つてたのか」
「解らぬ」
「何故戸を閉めてゐた」
「解らぬ」
「何故坐つてゐた」
「解らぬ」
「見附けられてどんな気がした」
「解らぬ」
一里行き、二里行き、わたしは始終腹を押へどほしであつた。何事も無かつた様な、まだ身体の何処やらに石油の余香を捧持してゐさうな、丈高いこの友の前に立つても可笑しく、あとになつても可笑しかつた。が、笑つてばかりもゐられなかつた。二晩つづきの睡眠不足はわたしの足を大分鈍らしてゐた。それに空模様も愈々怪しくなつて来た。三里も歩いた頃、長沢といふ古びはてた小さな宿場があつた。其処で昼をつかひながら、この宿場にあるといふ木賃宿に泊る事をわたしは言ひ出した。が、今度は中村君の勢ひが素晴しくよくなつた。どうしても予定の通り国境を越え、信州野辺山が原の中に在る板橋の宿《しゆく》まで行かうといふ。
我等のいま歩いてゐる野原は念場が原といふのであつた。八ヶ嶽の南麓に当る広大な原である。所所に部落があり、開墾地があり雑草地があり林があつた。大小の石ころの間断なく其処らに散らばつてゐる荒々しい野原であつた。重い曇で、富士も見えず、一切の眺望が利かなかつた。
止むなく彼の言ふ所に従つて、心残りの長沢の宿《しゆく》を見捨てた。また、先々の打ち合せもあるので予定を狂はす事は不都合ではあつたのだ。路はこれからとろ/\登りとなつた。この路は昔(今でもであらうが)北信州と甲州とを繋ぐ唯一の通路であつたのだ。幅はやゝ広く、荒るゝがまゝに荒れはてた悪路であつた。
とう/\雨がやつて来た。細かい、寒い時雨である。二人とも無言、めい/\に洋傘をかついで、前こゞみになつて急いだ。この友だとて身体の労れてゐない筈はない。大分怪しい足どりを強ひて動かしてゐるげに見えた。よく休んだ。或る所では長沢から仕入れて来た四合壜を取り出し、路傍に洋傘をたてかけ、その蔭に坐つて啜り合つた。
恐れてゐた夕闇が野末に見え出した。雨はやんで、深い霧が野末をこめて来た。地図と時計とを見較ベ/\急ぐのであつたが、すべりやすい粘土質の坂路の雨あがりではなか/\思ふ様に歩けなかつた。そのうち、野末から動き出した濃霧はとう/\我等の前後を包んでしまつた。
まだ二里近くも歩かねば板橋の宿には着かぬであらう、それまでには人家とても無いであらうと急いでゐる鼻先へ、意外にも一点の灯影を見出した。怪しんで霧の中を近づいて見るとまさしく一軒の家であつた。ほの赤く灯影に染め出された古障子には飲食店と書いてあつた。何の猶予もなくそれを引きあけて中に入つた。
入つて一杯元気をつけてまた歩き出すつもりであつたのだが、赤々と燃えてゐる囲爐裏の火、竃の火を見てゐると、何とももう歩く元気は無かつた。わたしは折入つて一宿の許しを請うた。囲爐裏で何やらの汁を煮てゐた亭主らしい四十男は、わけもなく我等の願ひを容れて呉れた。
我等のほかにもう一人の先客があつた
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