。信州海の口へ行くといふ荷馬車挽きであつた。それに亭主を入れて我等と四人、囲爐裏の焚火を囲みながら飲み始めた酒がまた大変なことゝなつた。
 折々誰かゞ小便に立つとて土間の障子を引きあけると、捩ぢ切る様な霧がむく/\とこの一座の上を襲うて来た。

 十一月一日。
 酒を過した翌朝は必ず早く眼が覚めた。今朝もそれであつた。正体なく寝込んでゐる友人の顔を見ながら枕許の水を飲んでゐると、早や隣室の囲爐裏ではぱち/\と焚火のはじける音がしてゐる。早速にわたしは起き上つた。
 まだランプのともつた爐端には亭主が一人、火を吹いてゐた。膝に四つか五つになる娘が抱かれてゐた。昨夜から眼についてゐた事であつたが、この子の鼻汁は鼻から眼を越えて瞼にまで及んでゐた。今朝もそれを見い/\、この子の名は何といひましたかね、と念のため訊いてみた。マリヤと云ひますよとの答へである。そして、それはこの子の生れる時、何とかいふ耶蘇の学者がこの附近に耶蘇の学校を建てるとか云つて来て泊つてゐて、名づけてくれたのだといふ。
「昨晩はどうも御馳走さまになりました」
 と、やがてそのマリヤの父親はにや/\しながら言つた。
「イヤ、お騒がせしました」
 とわたしは頭を掻いた。
 其処へ荷馬車挽きも起きて来た。
 煙草を二三本吸つてゐるうちに土間の障子がうす蒼く明るんで来た。顔を洗ひに戸外《おもて》に出ようとその障子を引きあけて、またわたしは驚いた。丁度真正面に、広々しい野原の末の中空に、富士山が白麗朗と聳えてゐたのである。昨日はあれをその麓から仰いで来たに、とうろたへて中村君を呼び起したが、返事もなかつた。
 膳が出たが、わが相棒は起きて来ない。止むなく三人だけで始める。今朝は炬燵を作りその上で一杯始めたのである。霧は既に晴れ、あけ放たれた戸口からは朝日がさし込んで炬燵にまで及んで居る。
 そしていつの間に出て来たものか[#「来たものか」は底本では「来もたのか」]、見渡す野原も、その向う下の甲州地も一面の雲の河となつてしまつた。富士だけがそれを抜いて独りうらゝかに晴れてゐる。二三日前にツイこの向うの原で鹿が鳴いたとか、三四尺の雪に閉ぢこめられて五日も十日も他人の顔を見ずに過す事が間々あるとか、丁度此処は甲州と信州との境に当つてゐるのでこの家のことを国境といふとかいふ様な話のうちに、おとなしく朝食は終つた。
 困つたのはランプ部屋居士である。砂糖湯を持つて行き、梅干茶を持つて行き、お迎へに一杯冷たいのをぐいとやつて見ろとて持つて行くが、持つて行つたものを大抵飲み干すが、なか/\御神輿が上らない。「とても歩けさうにない、あのお荷物を頼みますよ」とわたしが言つたので荷馬車屋もよう立ちかねてゐる。六時から十時まで、さうして過した。「いつまでもこれでは困るだらう、お前さん先に行つて呉れ」
 と荷馬車屋を立たせようとしてゐる所へ、蹌踉として起きて来た。ランプ部屋ではまだ何処やら勇ましかつたが、今朝はあはれ見る影もない。
 早速出立、実によく晴れて、霜柱を踏む草鞋の気持はまさしく脳にも響く快さである。昨日はその南麓を巡つて来た八ヶ嶽の今日は北の裾野を横切つてゐるわけである。からりと晴れたこの山のいただきにうつすらと雪が来てゐた。
「大丈夫か、腰の所を何かで結《ゆは》へようか」
「大、丈、夫です」
 と、居士は荷馬車の尻の米俵の上に鎮座ましまし、こくり/\と揺られてゐる。
 野原と云つても多くは落葉松の林である。見る限りうす黄に染つたこの若木のうち続いてゐる様はすさまじくもあり、また美しくも見えた。方数里に亙つてこれであろう。
 漸く歌を作る気にもなつた。
[#ここから2字下げ]
日をひと日わが行く野辺のをちこちに冬枯れはてて森ぞ見えたる
落葉松は痩せてかぼそく白樺は冬枯れてただに真白かりけり
[#ここで字下げ終わり]
 二里あまり歩いてこの野のはづれ、市場といふへ来た。此処にも一軒屋の茶店があつた。綺麗な娘がゐるといふので昼食をする事にした。
 其処より逆落しの様な急坂を降れば海の口村、路もよくなり、もう中村君も歩いてゐた。やゝ歩調を整えて存外に早く松原湖に着き、湖畔の日野屋旅館におちついた。まだ誰も来てゐなかつた。
 程なく布施村より重田行歌、荻原太郎君の両君、本牧村より大沢茂樹君、遠く松本市より高橋希人君がやつて来た。これだけ揃うとわたしも気が大きくなつた。昨日一昨日は全く心細かつた。
 夕方から凄じい木枯が吹き出した。宿屋の新築の別館の二階に我等は陣取つたのであつたが、たび/\その二階の揺れるのを感じた。
 宵早く雨戸を締め切つて、歌の話、友の噂、生活の事、語り終ればやがて枕を並べて寝た。
[#ここから2字下げ]
遠く来つ友もはるけく出でて来て此処に相逢ひぬ笑みて言《こと》なく

前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
若山 牧水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング