木枯紀行
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)須走《すばしり》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)うと/\と
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――ひと年にひとたび逢はむ斯く言ひて
  別れきさなり今ぞ逢ひぬる――
[#ここで字下げ終わり]

 十月二十八日。
 御殿場より馬車、乗客はわたし一人、非常に寒かつた。馬車の中ばかりでなく、枯れかけたあたりの野も林も、頂きは雲にかくれ其処ばかりがあらはに見えて居る富士山麓一帯もすべてが陰欝で、荒々しくて、見るからに寒かつた。
 須走《すばしり》の立場で馬車を降りると丁度其処に蕎麦屋があつた。これ幸ひと立寄り、先づ酒を頼み、一本二本と飲むうちにやゝ身内が温くなつた。仕合せと傍への障子に日も射して来た。過ぎるナ、と思ひながら三本目の徳利をあけ、女中に頼んで買つて来て貰つた着茣蓙を羽織り、脚軽く蕎麦屋を立ち出でた。
 宿場を出はづれると直ぐ、右に曲り、近道をとつて籠坂《かごさか》峠の登りにかかつた。おもひのほかに嶮しかつた。酒は発する、息は切れる、幾所《いくところ》でも休んだ。そしていつもの通り旅行に出る前には留守中の手当《てあて》為事《しごと》で睡眠不足が続いてゐたので、休めば必ず眠くなつた。一二度用心したが、終《つい》に或所で、萱か何かを折り敷いたまゝうと/\と眠つてしまつた。
「モシ/\、モシ/\」
 呼び起されて眼を覚すと我知らずはつ[#「はつ」に傍点]とせねばならなかつた程、気味の悪い人相の男がわたしの前に立つてゐた。顔に半分以上の火傷《やけど》があり眼も片方は盲ひて引吊つてゐた。
「風邪をお引きになりますよ」
 わたしの驚きをいかにも承知してゐたげにその男は苦笑して、言ひかけた。
 わたしはやゝ恥しく、惶てゝ立ち上つて帽子をとりながら礼を言つた。
「登りでしたら御一緒に参りませう」
 とその若い男は先に立つた。
 酒を過して眠りこけてゐた事をわたしは語り、彼は東京で震災でこの大火傷を負うた旨を語りつゝ峠に出た。
 吉田で彼と別れた。彼は何か金の事で東京から来て、昨日は伊豆の親類を訪ね、今日はこれより大月の親類に廻つて助力を乞ふつもりだといふ様な事を問はず語りに話し出した。いかにも好人物らしく、彼が同意するならば一緒に今夜吉田で泊るも面白からうなどとわたしは思うた。が、先を急ぐと云つて、そゝくさと電車に乗つて彼は行つてしまつた。
 ほんの一寸の道づれであつたが、別れてみれば淋しかつた。それにいつか暮れかけては来たし、風も出、雨も降り出した。其儘、吉田で泊らうかと余程考へたが、矢張り予定通り河口湖の岸の船津まで行く事にし、両手で洋傘を持ち、前こゞみになつて、小走りに走りながら薄暗い野原の路を急いだ。
 午後七時、湖岸の中屋ホテルといふに草鞋をぬいだ。

 十月二十九日。
 宿屋の二階から見る湖にはこまかい雨が煙つてゐたが、やや遅い朝食の済む頃にはどうやら晴れた。同宿の郡内屋(土地産の郡内織を売買する男ださうで女中が郡内屋さんと呼んでゐた)と共に俄かに舟を仕立て、河口湖を渡ることにした。
 真上に仰がるべき富士は見えなかつた。たゞ真上に雲の深いだけ湖の岸の紅葉が美しかつた。岸に沿ふた村の柿の紅葉がことに眼立つた。こゝらの村は湖に沿うてゐながら井戸といふものがなく、飲料水には年中苦労してゐるのださうだ。熔岩地帯であるためだといふ。
 渡りあがつた所の小村で郡内屋と別れ、ルツクサツクの重みを快く肩に背に感じながらわたしはいい気持で歩き出した。直ぐ、西湖に出た。小さいながらに深く湛へてゐるこの湖の縁を歩きつくした所に根場《ねんば》といふ小さな部落があつた。所の祭礼らしく、十軒そこそこの小村に幟が立てられ、太鼓の音が響いてゐた。
 不図見ると村に不似合の小綺麗なよろづ屋があつた。わたしは其処に寄り、酒と鑵詰とを買ひ、なほ内儀の顔色をうかがひながらおむすびを握つて貰へまいかと所望してみた。お安いことだが、今日は生憎くお赤飯だといふ。なほ結構ですと頼んで、揃つた夫等を風呂敷に包んで提げながら、其処を辞した。今朝、雨や舟やで、宿屋で此等を用意するひまがなく、また急げば昼までには精進湖《しようじこ》まで漕ぎつけるつもりで立つて来たのであつた。然し、次第に天気の好くなるのを見てゐると、これから通りかゝる筈の青木が原をさう一気に急いで通り過ぎることは出来まいと思はれたので、店のあつたのを幸ひに用意したのであつた。
 樹海などと呼びなされてゐる森林青木が原の中に入つたのはそれから直ぐであつた。成る程好き森であつた。上州信州あたりの山奥に見る森木
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