の欝蒼たる所はないが、明るく、而かも寂びてゐた。木に大木なく、而かもすべて相当の樹齢を持つてゐるらしかつた。これは土地が一帯に火山岩の地面で、土気《つちけ》の少いためだらうと思はれた。それでゐて岩にも、樹木の幹にも、みな青やかな苔がむしてゐた。多くは針葉樹の林であるが、中に雑木も混り、とりどりに紅葉してゐた。中でも楓が一番美しかつた。楓にも種類があり、葉の大きいのになるとわたしの掌をひろげても及ばぬのがあつた。小さいのは小さいなりに深い色に染つてゐた。多くは栂《つが》らしい木の、葉も幹も真黒く見えて茂つてゐるなかに此等の紅葉は一層鮮かに見えた。
わたしは路をそれて森の中に入り、人目につかぬ様な所を選んで風呂敷包を開いた。空が次第に明るむにつれ、風が強くなつた。あたりはひどい落葉の音である。樅か栂のこまかい葉が落ち散るのである。雨の様な落葉の音の中に混つて頻りに山雀の啼くのが聞える。よほど大きな群らしく、相引いて次第に森を渡つてゆくらしい。と、ツイ鼻先の栂の木に来て樫鳥が啼き出した。これは二羽だ。例の鋭い声でけたゝましく啼き交はしてゐる。
長い昼食を終つてわたしはまた森の中の路を歩き出した。誰一人ひとに会はない。歩きつ休みつ、一時間あまりもたつた頃、森を出外れた。そして其処に今までのいづれよりも深く湛へた静かな湖があつた。精進湖である。客も無からうにモーターボートの渡舟が岸に待つてゐた。快い速さで湖を突つ切り、山の根つこの精進村に着いた。山田屋といふに泊る。
十月三十日。
宿屋に瀕死の病人があり、こちらもろくろくえ眠らずに一夜を過した。朝、早く立つ。
坂なりの宿場を通り過ぎると愈々嶮しい登りとなつた。名だけは女坂峠といふ。堀割りの様になつた凹みの路には堆く落葉が落ち溜つてじとじとに濡れてゐた。
越え終つて渓間に出、渓沿ひに少し歩き渓を渡つてまた坂にかゝつた。左右口峠《うばぐちたうげ》といふ。この坂は路幅も広く南を受けて日ざしもよかつたが、九十九折の長い/\坂であつた。退屈しい/\登りついた峠で一休みしようと路の左手寄りの高みの草原に登つて行つてわたしは驚喜の声を挙げた。不図振返つて其処から仰いだ富士山が如何に近く、如何に高く、而してまたいかばかり美しくあつたことか。
空はむらさきいろに晴れてゐた。その四方の空を占めて天心近く暢びやかに聳え立つてゐる山嶺を仰ぐにはこちらも身を頭をうち反らせねばならなかつた。今日の深い色の空の真中に立つこの山にもまた自づと深い光が宿つてゐた。半ばは純白の雪に輝き、なかばは山肌の黒紫《くろむらさき》が沈んだ色に輝いてゐた。而してその山肌には百千の糸巻の糸をほどいて打ち垂らした様に雪がこまかに尾を引いてしづれ落ちてゐるのであつた。
峠を下り、やゝ労れた脚で笛吹川を渡らうとすると運よく乗合馬車に出会つてそれで甲府に入つた。甲府駅から汽車、小淵沢駅下車、改札口を出ようとすると、これは早や、かねて打合せてあつた事ではあるが信州松代在から来た中村柊花君が宿屋の寝衣を着て其処に立つてゐた。
「やア!」
「やア!」
打ち連れて彼の取つてゐた宿いと屋といふに入つた。
親しい友と久し振に、而かも斯うした旅先などで出逢つて飲む酒位ゐうまいものはあるまい。風呂桶の中からそれを楽しんでゐて、サテ相対して盃を取つたのである。飲まぬ先から心は酔うてゐた。
一杯々々が漸く重なりかけてゐた所へ思ひがけぬ来客があつた。この宿に止宿してゐる小学校の先生二人、いま書いて下げた宿帳で我等が事を知り、御高説拝聴と出て来られたのである。
漸くこの二人をも酒の仲間に入れは入れたが要するに座は白けた。先生たちもそれを感じてかほど/\で引上げて行つた。が、我等二人となつても初めの気持に返るには一寸間があつた。
「あなたはさぼし[#「さぼし」に白丸傍点]といふものを知つてますか」と、中村君。
「さア、聞いた事はある様だが……」
「此の地方の、先づ名物ですネ、他地方で謂ふ達磨の事です」
「ほゝウ」
「行つて見ませうか、なか/\綺麗なのもゐますよ」
斯くて二人は宿を出て、怪しき一軒の料理屋の二階に登つて行つた。そしてさぼし[#「さぼし」に白丸傍点]なるものを見た。が不幸にして中村君の保証しただけの美しいのを拝む事は出来なかつた。何かなしに唯がぶ/\と酒をあふつた。
二人相縺れつゝ宿に帰つたはもう十二時の頃でもあつたか。ぐつすりと眠つてゐる所をわたしは起された。宿の息子と番頭と二人、物々しく手に/\提灯を持つて其処に突つ立つてゐる。何事ぞと訊けば、おつれ様が見えなくなつたといふ。見れば傍の中村君の床は空である。便所ではないかと訊けば、もう充分探したといふ。サテは先生、先刻の席が諦められず、またひそかに出直して行つたと見える。わた
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