。切れる様な水で顔を洗ひ、囲炉裡にどんどと焚いて、お茶代りの般若湯を嘗めてゐると、やがて味噌汁が出来、飯が出た。味噌汁には驚いた。内儀は初め馬の秣桶で、大根の葉の切つたのか何かを掻きまぜてゐたが、やがてその手を囲炉裡にかゝつた大鍋の漸くぬるみかけた水に突つ込んでばしや/\と洗つた。その鍋へ直ちに味噌を入れ、大根を入れ、斯くて味噌汁が出来上つたのである。
 馬たちはまだ寝てゐた。大きい身体をやゝ円めに曲げて眠つてゐる姿は、実に可愛いゝものであつた。毛のつやもよかつた。これならお前たちと一つ鍋のものをたべても左程きたなくはないぞよと心の中で言ひかけつゝ、味噌汁をおいしくいたゞいた。
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寒しとて囲炉裡の前に厩作り馬と飲み食ひすこの里人は
まるまると馬が寝てをり朝立《あさだち》の酒わかし急ぐ囲炉裡の前に
まろく寝て眠れる馬を初めて見きかはゆきものよ眠れる馬は
のびのびと大き獣のいねたるは美しきかも人の寝しより
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 其処へ提灯をつけて案内の爺さんが来た。相共に上天気を喜びながら宿を出た。
 十文字峠は信州武州に跨がる山で、此処より越えて武蔵荒川の上流に出るまで上下七里の道のりだといふ。その間、村はもとより、一軒の人家すら無いといふ。暫らく渓に沿うて歩いた。もう此処等になると千曲川も小さな渓となつて流れてゐるのである。やがて、渓ばたを離れて路はやゝ嶮しく、前後左右の見通しのきかない様な針葉樹林の中に入つてしまつた。木は多く樅と見た。今日はいちにち斯うした森の中を歩くのだと爺さんは言つた。
 三国に跨がるこの大きな森林は官有林であり、其処にひそひそ盗伐が行はれてゐた。中でもやゝ組織的に前後七年間にわたつて行はれてゐた盗伐事件が今度漸く摘発せられたのださうだ。何しろ関係する区割が広く、長野県群島県東京府の役人たちがそのために今度出張つて来たのだといふ。わたしは苦笑した。その役人共のためにわたしは二度宿屋から追放されたのだと。
 いかにも深い森であつた。そして曲のない森でもあつた。素人眼には唯だ一二種類と見ゆる樹木が限界もなく押し続いてゐるのみであるのだ。不思議と、鳥も啼かなかつた。一二度、駒鳥らしいものを聞いたが、季節が違つてゐた。たゞ散り積つてゐるこまかな落葉をさつくり/\と踏んでゆく気持は悪くなかつた。それが五六里の間続くのである。
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