《いけす》に一人の男が出て行つた。私のために何か料理するものらしい。そして當然鯉か鮒が其處から掬ひ上げられるものとのみ思ふて何氣なく眺めてゐた私は少なからず驚いた。思はず立ち上つてその手網を見に行つた。見ごとな鯒《こち》がその中に跳ねてゐた。
『ホヽウ、此處に海の魚がゐるのかネ。』
番頭の方が寧ろ不思議さうに私を見た。
『よく釣れます、今朝お立ちになつたお客樣はほんの立ちがけに子鯖を二十から釣つてお持ちになりました。』
宿屋の前は背後の岡と同じ樣な小松の岡にとりかこまれた小さな入江になつてゐた。入江といふより大きな淵か池である。青んで湛へた水面には岸の松樹の影がつばらかに映つて居る。其處から鯖の子を釣りあぐる……、何としても私には變な氣がした。聞けば今は子鯖とかははぎ[#「かははぎ」に傍点]の釣れる盛りだといふ。かははぎ[#「かははぎ」に傍点]は皮剥ぎの謂《いひ》で、形の可笑しな魚だが、肉がしまつてゐておいしい。私の好物の一つである。兎に角、濱名湖は淡水湖なりや鹹水湖《かんすゐこ》なりやとむづかしく考へずとも、汽船で一時間も奧に入り込んで來た此處等のこの山の蔭にこれらの魚が棲んでゐ
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