天氣も惡く、寺は毎日雲霧に包まれてゐた。で、私は麩化登仙の熟語を作つて自ら慰めたものである。人に眼だたぬ廊下の隅がその時の私の居場所であり飮場所であつた。その隅を眺めつつ四年の昔を戀しく思つた。
 寺の中もすつかり綺麗になつてゐた。それとなく聞いてみると今夜豐橋の實業家たちが登つて來て佛法僧を聞き乍ら寺で謠曲會を開くのだといふ。T――君と相顧み、麥酒など勸めらるるのをも辭して別れた。東照宮の方に行く途で、見覺えのある老爺に出會ふた。寺の寺男である。毎日私のために飮料を麓から運んで呉れた恩人であつた。銀貨を紙に捻《ひね》り、不審がる彼に渡して別れた。
 宿屋に歸り、折柄の自動車に飛び乘り、長篠に出で、折角の奇遇をこのまゝ別るゝも辛く、其處より二三驛|上手《かみて》の湯谷温泉まで行つて共にゆつくり話さうといふことになり、電車に乘つた。車内は相當にこんでゐたが、湯谷驛に近づくやみな降り仕度をし始めた。名古屋邊から來た所謂散財の客らしい。また相苦笑して其處を乘越し、終點驛川合まで出てしまうた。そして其處に唯だ一軒の宿屋二木屋といふに荷物を置き、行く所もないまゝに百間瀧などといふ邊を散歩した。こ
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