のあたり豐川ももうほんの溪谷となり、下駄ばきのまゝ徒渉出來るのであつた。岸の岩には相變らず躑躅が咲き、河鹿が頻りに鳴いた。
 夜、柄にもなく旅愁を覺え、この病身の初對面の友を相手に私は酒を過した。そして終に藝者と名乘る女をも呼んで伊奈節を聞いたり唄うたりした。宿屋の前の往還が信州伊奈に通ずるものであることを聞いて思ひついた事であつたらう。
『先生、いつそ伊奈まで行きませうか。』
 四五杯の酒に醉うた年若い友はその痩せた手を擧げて言うた。
 六月二十五日。
 頭をよくするどころか、へと/\になつて、夜遲く沼津に歸つた。靜かにならう、靜かにならうと努めつゝいつか知ら結果はその反對になる、いつもの癖を身にしみじみと感じながら。
 硯はよき土産であつた、机の上に靜かである。鳳來寺の山よ。希《ねがは》くは永久に靜かな山であつて呉れ。



底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月8日公開
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