あつた。
 暖國ではどうしても人は自然に狎《な》れがちである。ともすると甘えがちで、どこか自然を馬鹿にする所がある。都會人、ことに文明の進んだ大きな都會では殆んど自然の存在するのを忘れてゞもゐる樣な觀がある。唯だ人は人間同志の間でのみ生活して、自然といふものを相手にしない、相手にするもせぬも、初めからその存在を知らない、といふ風のところがある。そして日一日とその傾向は深くなるかに思はれる。

 此間の樣に大地震があつたりなどすると、『自然の威力を見よや』といふ風のことをいふ人のあるのをよく見かけるが、私は自然をさうした恐しいものと見ることに心が動かない。あゝした不時の出來事は要するに不時の出來事で、自然自身も豫期しなかつた事ではなかろうかと思はれる。大小はあらうが、自然もまた人間と同樣、あゝした場合にはわれながらの驚きをなす位ゐのことであらうと思はれる。
 そして私の思ふ自然は、生存して行かうとする人類のために出來るだけの助力を與へようとするほどのものではなからうかと考へるらるゝのだ。多少の曲折はあるにしても、その生存を共同しようとする所がありはせぬかと考へらるゝ。と云ふより、自然の一
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