とは思ひながら、この留守宅の湯殿に滾々と湧いてゐる温泉に身を浸した。彼の老政治家が何か事を案ずる際には常に人目を避けてこの別莊に籠ると云ふ。必ずこの湯槽《ゆぶね》の縁の石に頭を凭せて靜かに思ひを纒めらるゝに相違ないなどと思ふと、同じ温泉でもこの清らかな湯がよそならぬものゝ樣に思ひなされて、たゞ靜かにたゞつゝましく浸つてゐた。
やがて待たせてあつた車に乘つて、夕闇の降りて來た下田街道を徐ろに走らせた。道は田圃の中にあつて、直ぐ且つ平かである。湯上りのつかれごころで三人とも多く無言のまゝの車の窓に、近く右手に赤々とうち廣がつた野火のほのほが見渡された。箱根山の枯草を燒くものである。
四月×日
東海道五十三次のうち丸子の宿《しゆく》はとろゝの名物と云ふことをば古い本でも見、現在でも作つてゐることを人から聞いてゐた。そのとゝろ汁が私は大の好物である。あまり暖くならぬうち一度是非行つて見たく、ついでに其處の宇津《うつ》の谷《や》峠をも越えて見たいと思ふうちにいつか桃の花が咲いて來た。ぐづぐづしてはゐられないと急に思ひ立つて、其の頃私の宅に來て勉強してゐた村松道彌君を連れ朝まだ月のある頃に
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